2021-01-01から1年間の記事一覧

大東市御供田地区の段藏

大東市のJR住道駅を降り立った。駅前の墓地の村相撲で活躍した方々の墓碑に無常の念を抱く。片町線に沿って、東行する。商店街の一角に「古堤街道」の石碑がある。 商店街のたばこ屋に写真が貼ってあった「古堤街道」の石碑 石碑を東に向かう。恩智川沿い…

大阪地裁・高裁の石

大阪地裁・高裁の敷地にある二つの石に気づいた方はいるだろうか。龍谷大学法学部教授の石塚伸一教授に教えていただいた。敷地の西北隅にある、お椀を伏せたような丸い石が二つあるのだ。住居表示は大阪市北区西天満2丁目1番となっている。しかし元は大阪…

事故の顛末

私はかつて転居を繰り返していた。 福島区の端に住んでいた。自転車で新淀川を渡り、東海道線を潜り、職場まで通っていた。 ◯◯団地に住んでいた。1号棟から3号棟まであったと記憶する。2号棟の9階に住んでいた。窓を開放していたので、暑い季節かなと想…

布屋公園の開園65周年おめでとう

大阪市城東区新喜多東1-14に大阪市の布屋公園がある。それがどうしたのかと問われるかもしれない。非常にローカルな話題である。しかし、そこが歴史上有名な人物の出生地と聞けば、興味を抱かれる方もいるかもしれない。 『時代に抗して光を求めた人々ー…

世の無常を墓石にみる

天王寺区はいま、マンション建築ブームである。高額のタワーマンションの部屋が売り出しと同時に売れていくらしい。子育てしやすい、買い物も便利、防犯・防災がしっかりしている、有名校が揃っている。しかし、高収入がなければ生活が営めないだろう。私み…

生野区・一条通りでの暴力事件

生野区の某公立中学校での思い出の続きを語ろう。時はこれも1980年代である。今はこの公立中学校は落ち着いているし、生徒たちは勉学に励んでいることを付け加えておく。 その中学校では「非行の高原状態」であった。非行の波がなく、事件が毎日続いてい…

城東区にある市設霊園②

新喜多(しぎた)は難読町名だと思う。「しんきた」と読まれることが多い。新喜多の名前は、鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の頭文字を取ってつけられた。鴻池新十郎は土木業者、鴻池喜七は金融業者で、新田経営には関心がなかった。それで長堀の材木商で…

城東区にある市設霊園①

城東区には、新喜多・中浜・左専道・関目の市設墓地がある。昭和7年9月に村墓から大阪市に寄付された新喜多霊園。中浜・左専道墓地は昭和27年3月、関目墓地は昭和30年1月に大阪市に引き継がれた。 大阪市設新喜多霊園にお参りに行った。城見通りから…

京橋駅空襲被災者慰霊祭が67回を数える

昭和20(1945)年8月14日、B−29(148機)が大阪砲兵工廠に大爆撃をした。そして、城東線(現・大阪環状線)に流れ弾の1トン爆弾が落ちて、交差する片町線に逃げ込んだ人たちに死傷者が出た。大きな穴ができて、城東線のレールは天を指して曲がる。…

番外編(広島県に「冠川」があった)

今、大阪市に洪水警報が発令されたとラジオの声が流れている。 8月の中旬なのに、梅雨末期の天候が続いている。洪水が気になる。 2021(令和3)年8月9日、NHKラジオのニュースを聞いていた。広島県山県郡北広島町を流れる冠川が台風9号の影響で氾濫危…

ある中学校の伝統(ソツリン)

生野区のある中学校では、1980年代まで卒業式前に「ソツリン」が伝統として行われていた。「ソツリン」とは卒リン(チ)の短縮形である。卒業式の準備が始まると、卒業生や在校生(2年生)に張り詰めた雰囲気が漂ってくる。 今は校舎配置が大きく変わってい…

ガラス工場にあった石碑③

ついに「恋人」に逢える時がやってきた。 そんな甘い感情を抱いて、天王寺区の茶臼山の統国寺に向かった。朝だけにホテル街は眠ったように静かであった。普茶料理の阪口楼はコロナ禍で営業をしていないように見えた。インターフォン越しに訪問の趣旨を伝えた…

ガラス工場にあった石碑②

「鬼城繁太郎氏永世不忘碑」は、天王寺区の茶臼山にある統国寺にある。 その碑がもともとあった工場跡に足を向けた。 マンションの南西隅に石碑があった。 東を望む。生駒山の方向である。 北を望む。 旧ガラス工場の北側(馬車道)を東に向けて歩く。 100…

桜小橋があるなら、桜橋は何処にありや

大阪シティバス大阪駅⇆焼野35番の停留所に「桜小橋」がある。旧榎並川に架かっていた橋の名であろう。小学校5年生頃から毎日曜日に蒲生4丁目からバスで阪急阪神前まで乗った記憶がある。 近鉄バスも並行していた。停留所に留まるが、乗車できる停留所が決ま…

ガラス工場にあった石碑①

環状線京橋駅から東に歩くと、玉井ガラス製造所がかつてあった。その一角に「鬼城繁太郎氏永世不忘碑」があった。聖賢小在学時に京橋駅まで行事で列になって歩いた。視野の一部に石碑が見えた。その後もガラス工場の隅に石碑があった。ガラス工場が消え、マ…

片町線(京橋〜鴫野)の踏切名の由来

片町線の京橋駅を出て鴫野駅までには3つの踏切がある。東から順に鯰江踏切・馬の口踏切・新喜多踏切と並んでいる。鯰江と新喜多踏切は地名から付けられたと思われる。馬の口踏切はどうだろう。そんな素朴な疑問から踏切名の由来を考えてみた。 寝屋川と鯰江…

「大阪の宿」の菅原町と太平橋

大阪天満宮の鳥居を抜けて、日本基督教団天満教会の前を過ぎて、乾物の町で栄えた菅原町を歩いた。今は上に阪神高速道路の高架橋が走っている。しかし、下には昔の建物(乾物倉庫)がしっかり残っている。その建物にはちゃんと乾物類が収まっていると聞く。 道…

吹田市の小女郎稲荷

小女郎稲荷で頭がいっぱいになっていた。しかし、世間はほっておいてくれない。城東区の狐山、皇大神宮、稲荷社に焦点を絞っていて、視野が狭くなっていた。そんな時だった。 足代健二郎氏から示唆をいただいた。それは『摂陽郡談』巻第十七・雑類の「紅梅狐…

小女郎稲荷社と狐山

「せんぎょ せんぎょ」と子どもたちが囃したてて、狐山を回るお祭りと先に書いた。 「せんぎょ」は「施行(せぎょう)」が訛ったものでないか。俗謡が『東成郡誌』に載っている。「せんぎょせんぎょ(施行施行の意)野せんぎょじゃ」とある。 田野登氏の記憶では…

城東区今福の皇大神宮

皇大神宮の住所は、大阪市城東区今福南2丁目12-31である。自転車で暑さの中を今福村のまち歩き(?)をした。社務所で「由緒書」をいただく。携帯していた『城東区ふれあいマップ』(城東区役所発行)も参考にした。 マップから引用する。皇大神宮の祭神は…

大阪環状線京橋駅の界隈さまざま(2)

京橋のホテル街の一角に戦前に人形劇団の活動があったことを文献で知ることができた。国道1号線と大阪環状線が交差するガードを境にして、町の顔が変貌する。東側は戦後の闇市からできた遊楽街である。旅館、居酒屋、焼肉店、喫茶店などのごちゃごちゃした…

冠村フィールドワーク②

川口探検隊ならぬ田野探検隊員(田野隊長、千葉武隊員、東野)3名は2021年6月9日午後、阪急高槻市駅から冠須賀神社へ歩を進めた。3人寄れば文殊の知恵。1日は24時間しかないのに、それぞれの関心は統一できない。高槻市の地図を頼りに南へ向かった…

大道俊の思い出

大道俊の思い出と大上段に振りかぶった表現をしたが、それほどの邂逅ではない。私が話した大道さんは白髪のおばあさんだった。「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟って知っている?」と聞かれた。常識だから知っていると答えた。それ以外は記憶にない。ただ…

大阪環状線京橋駅の界隈さまざま(1)

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部事務局長(漢字21文字も)であった 塩田一行氏が先日コロナで亡くなった。事務所を訪問するたびに資料の提供を受けた。 学恩のある方だった。74歳で泉下に行かれた。 今年のことだ。『彫刻家 浅野孟府の時代』(…

『一粒の種』を読んで

高田鑛造著『一粒の種』を手にした。1991年6月1日発行。大阪労働運動史研究会が編集したものだ。 久保在久氏が高田鑛造氏から口述筆記した。発行当時、高田氏は87歳であった。久保氏は『大阪砲兵工廠物語』や『大阪砲兵工廠年表』を最近出版されている。 高…

野江刑場の題目石が守口市にあった

守口市の文禄堤を歩いてみた。 守口市役所で「守口文化財ガイドマップ」をいただいた。 旧三洋電気本社の市役所を南下して、文禄堤を歩けた。 本門佛立宗「義天寺」の山門がみえてくる。 その左側に野江刑場にあった題目石がある。その石は写真で 見ていたが…