父は兵隊に行けなかった

 亡くなった父は兵隊に行かなかった。なぜか。それを聴く機会は何度もあった。躊躇う気持ちが先に立った。97歳で亡くなり、一心寺の骨仏になる。新喜多2丁目にかつて住んでいた。寝屋川の北側になる。

 絵を描くのが好きだった。紙に船を描いて見せてくれた。父から聞いたことを記述する。

 生年は、大正11年2月。大阪市立鯰江第二尋常小学校(現在の聖賢小学校)を卒業し、大阪市立城東高等小学校に進学(卒業生名簿に記載なし、現在の放出中学校にあった)。北区川崎町の専門学校に進学した(これも卒業生名簿に記載なし)。

 戦争中(昭和19年10月から昭和20年8月25日まで)、坪佐鉄工所で働く。坪佐鉄工所が職工の要求に解雇で応じた記事が新聞記事になっている。(「大阪朝日新聞」夕刊、1921(大正10)年8月21日)

労働争議がかつて激しかった工場に入社したと思われる。労働組合に加盟して、労働者になっていったか。

 昭和20年4月から8月25日まで大阪機工株式会社猪名川製作所に重複して働いている。大阪機工は現在、名称がニデックオーケーケー株式会社になっている。1915(大正4)年10月創業。伊丹市北伊丹8-10に盛業中である。

 戦後、商売をする前はサラリーマンだった。昭和22年2月から4月まで甲陽製作所株式会社放出西工場に勤務。寝屋川筋の岡村鉄工所に昭和25年6月から昭和28年4月まで勤めていて、旋盤工だったらしい。

f:id:higachanntan:20240418220420j:image城東区新喜多2丁目の街並み
f:id:higachanntan:20240418220406j:image↑同上(戦災を受けなかったため、築百年以上の建物が残っている)
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f:id:higachanntan:20240418220416j:image↑同上
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 生前、鴫野駅近くの整形外科で院長に聴いた。父は障害者手帳を持っていて、院長が書類を書いたからだ。父は小児まひで、左足は多少びっこを引いていた。歩く時に少しおかしいと思っていたのに、聞こうとしなかった。小児まひは先天性か後天性かと尋ねると、後天性だと教えてくれた。小児まひのため、戦争に行かずに済んだのだ。そして、戦後に私は生まれたのだ。

f:id:higachanntan:20240418220946j:image若狭高浜の海岸は遠浅だ
f:id:higachanntan:20240418220942j:image↑弟と一緒に写る
f:id:higachanntan:20240418220936j:image↑叔父夫婦と若狭高浜の民宿に宿泊した

 軍隊に不要な人間だったのだ。障害者は戦争に向かないのだ。戦中は軍需工場で働き、戦後は城東区の、甲陽製作所放出西工場や岡村鉄工所で旋盤工として働く。職工だった。労働組合にも参加していたらしい。私が労働組合運動に参加していることを父に報告したら、ポツリと言った。「気をつけろよ。組織は個人を振り回すぞ。」と。労働組合運動で彼は組織に騙された経験があったからか。

【写真提供】

若狭高浜の写真は、従兄弟の東野弘明氏と東野徹氏から提供されました。感謝します。

戦中戦後の厚生年金保険の記録は、日本年金機構大阪事務センターの「被保険者記録照会回答票」に拠っています。(平成27年5月26日現在の記録)