大阪地裁・高裁の石

 大阪地裁・高裁の敷地にある二つの石に気づいた方はいるだろうか。龍谷大学法学部教授の石塚伸一教授に教えていただいた。敷地の西北隅にある、お椀を伏せたような丸い石が二つあるのだ。住居表示は大阪市北区西天満2丁目1番となっている。しかし元は大阪市北区真砂町であった。ここにかつて真砂監獄があった。そこで死刑囚が刑を執行された場所である。死刑になった囚人を慰霊する碑なのだ。裁判所の総務課に掛け合ったが、予算等がないので掲示板の設置は無理と言われた。死刑囚の魂はいつまでも浮かばれない。

f:id:higachanntan:20211109003854j:image大阪地裁・高裁の西北隅。
f:id:higachanntan:20211109003846j:imageお椀を伏せたような慰霊碑。
f:id:higachanntan:20211109003850j:image旧町名の真砂町を説明している。
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『刑務所拘置所変遷図(大阪府内編)』を紐解くと、図示されている。

 江戸期に高原溜(天王寺区生玉町、中央区高津付近)からはじまる。明治元(1868)年改称されて高原徒刑場になる。明治7(1873)に移転改称して、懲役場となる。北区真砂町にあったらしい。それが真砂監獄とも呼ばれたのかもしれない。翌年の明治7(1874)年に移転する。旧佐賀藩邸跡の北区若松町付近であったが、明治19(1886)年に若松町監獄に改称する。明治21(1888)年、若松町監獄と中之島監獄は堀川監獄に移転合併する。堀川監獄は現在の北区扇町公園にあたる。

 明治36(1903)年に改称分割される。それが大阪刑務所につながる大阪監獄になる。もう一つが堀川監獄(北区天満橋筋西1丁目)になり、昭和16(1941)年に名称変更されて大阪拘置所になる。昭和38(1963) 年都島区友渕町に移転する。

 以上が北区真砂町にあった懲役場(真砂監獄)の歴史である。