寝屋川斎場

 大阪市立寝屋川斎場(現:鶴見斎場)は、昭和8(1933)年2月に「寝屋川葬儀所」として開設され、90年以上の歴史を持つ公営斎場。

 「旧放出町1207番地にある。第二次市域拡張に伴う旧町村の火葬場を整理統合するため、失業救済事業として昭和8(1933)年建設された。工費5万6000余円を投じた鉄筋コンクリート建で重油炉10基を有する。現在は重油炉4基により日常業務を取り扱っている。なお昭和27(1952)年の取り扱い件数は1207件、47(1972)年度は1829件であった」(『城東区史』昭和49年7月発行、城東区史編纂委員会)

 

 昭和58(1983)年に現在の名称に改称。老朽化に伴い、平成16年度〜18年度にかけて全面改築が行われ、現在は環境に配慮した近代的な施設(都市ガスを燃料とした環境に優しい火葬炉を導入し、周辺の環境に調和した近代的なデザインを採用)になっている。 

 大阪市が運営する公営斎場で、火葬場と式場が併設されているため、通夜・葬儀・火葬を一貫して執り行うことができる。 
 現在は、落ち着いた環境で、家族葬から一般的な葬儀まで対応している。(大阪市環境局のHPを閲覧した)

 

 友人が若くして亡くなった。通夜と葬儀が鶴見斎場で行われた。ご遺体の顔に闘病の疲れが浮いていた。鯰江保育所で子どもを介して友人付き合いをしていた。同じ城東区に住んでいて、犬の散歩に公園にいく姿を何度も見た。

 彼の出身地は高知県と聞く。同姓で堺事件の犠牲者がいるが、関係があるのか不明になってしまった。

 

 

行方不明の女性、水死体で見つかる

 今年の4月中旬の夜、近所のアパートにパトカーが停まった。アパートの二階の部屋だ。110番通報をしたのは中学校に通学する娘らしい。「お母さんがいなくなった。どこかに行った。」と叫ぶばかりだ。警官が事情を聴こうにもそれ以上はわからない。いわゆる育児放棄か。親子喧嘩の凄まじさは近所では有名だった。以上はまた聞きである。

f:id:higachanntan:20230722223023j:image↑フェスティバルホール(本文と関係がありません)

 3月に長女が中学校への進学が決まって、喜ぶ母の表情があった。親子ケンカも収まるかと安心した。その後、その母に電話連絡をしても、電話会社のアナウンスが流れるだけであった。2〜3度電話をしても同様であった。

 

 7月初旬にアパートの住人から4月中旬の一件を聴いた。母子間に何があったのだろう。

 

 7月17日の午後、アパートの前に管理会社の車が停まったいた。2階から世帯道具を運び出していた。どこの道具を運び出しているのか。聞くと2階の部屋から出していたのだ。先週に連帯保証人と一緒に部屋に入った。それで今日の運び出しになったのだ。

f:id:higachanntan:20230722223145j:image↑フェスティバルホールの収容人員(本文と関係がありません)

 「淀川でうつ伏せになって見つかった」と管理会社の男は言った。行方不明からどう過ごしていて淀川に身を投げたのか。最悪の結果になった。それ以上の情報はもらえなかった。その部屋には何もなくなっているのだろう。その部屋の住人もいなくなり、別の住人が入ってくるのだろう。

f:id:higachanntan:20230722223521j:image↑生野区の焼肉店(本文と関係がありません)

 町会員の一人がいなくなった。悲しみが襲ってくる。この悲しみの原因はどこだ。責任者は誰だ。誰がここまで母子を追い込んだのか。私憤から公憤へと怒りが増してくる。

f:id:higachanntan:20230722222805j:image↑校下夏まつりのチラシ

蒲生不動尊

号 城東商店街と城東中央商店街の東、住宅街の一角に、昭和9(1929)年に建てられた「蒲生不動尊」がある。不動明王像は昭和4(1929)年、役行者神變大菩薩像は昭和8(1933)年にそれぞれ建つ。旧テアトル城映(廃館)の東といえば、通じる方もあるだろう。

f:id:higachanntan:20261011155613j:image↑城東商店街の南入口
f:id:higachanntan:20261011155614j:image↑中央に自転車が駐輪している(道路交通法で禁じられている)

 

  蒲生不動尊は1945(昭和20)年の戦災を乗り越えた。1995(平成7)年の阪神淡路大震災でお不動さん(不動明王像)が倒れて一部破損した。その後復旧された。

 役行者神變大菩薩像の石像と不動明王像が祀られている。地元や遠方からお参りに来られる。しかし、コロナ禍以後はお札を買い求める企業からの寄付も減っている。一枚100円のを20枚単位で買い求めた企業もあった。市会議員や府会議員の参加もあったらしい。

 毎月10日の午後4時から健康・商売繁盛などを祈念して、奉納された護摩木を行者とともに焚き上げる護摩焚きが長年続けられている。ヒガチャンも健康を願って、お祈りをした。

f:id:higachanntan:20261011161949j:image↑毎月10日の16時から護摩焚きが行われている
f:id:higachanntan:20261011161951j:image↑護摩
f:id:higachanntan:20261011161952j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261011161953j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261011161950j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261011161954j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261011161955j:image↑同上

 長年蒲生不動尊のお世話をされているA川さん(鶴見区在住)から行事について伺った。赤川さんは1942(昭和17)年生まれ。城東区の大峰山の行者講についてお聞きした。コロナ禍では疫病退散を願い、500本以上の護摩木が奉納され、大護摩会が行われた。

f:id:higachanntan:20261011171741j:image↑護摩焚きの後でいただいた、A川さん手作りの味

f:id:higachanntan:20261013004321j:image↑A川さんの手作り

 

 修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が最初に開山した大峰山(奈良県吉野郡)への参拝(行者講)が、かつて盛んに行われていた。ヒガチャンも生野区の中学校では林間学校が大峰山登山であった。男子は大峰山、女子は稲村が岳であった。二泊三日の行程。宿泊地は洞川(どろがわ)。

f:id:higachanntan:20261012190420j:image↑洞川温泉(「きんてつで行くレトロな旅 名水の里洞川温泉」令和8年9月1日、近畿日本鉄道)
f:id:higachanntan:20261012190421j:image↑同上

 かつて大峰山に参拝したら、洞川で「精進落とし」をした話を聞いたことがある。売春禁止法が発効する以前の話である。

 

 城東区で行者講の歴史を伝える場所を紹介しよう。

★榎並講(城東区野江3丁目5)

    旧榎並村(現在の野江、関目、内代)の大峰山参り有志によって1933(昭和8)年7月に建てられた。石像の不動明王像、役行者像は付近の方々によって手厚く祀られている。榎並講は戦前、非常に盛んで、特に13歳になった男子が村人に連れられて大峰山へ行った。断崖絶壁に逆さまに宙吊りになって行う「人生に対する誓い」は青年への「通過儀礼」であった。

☆蒲生行者講(城東区蒲生4丁目10)

   300余年間、蒲生村民の安全と繁栄を念じてきたと言われる。杉田善右衛門家の地面に建つ。

 大峰山上の行場で厳しい山行を終えて下山した人に、体を跨いでもらうと強くなるというので、人々は道に横たわって跨いでもらったと言われている。不動明王像や役行者、弘法大師像は大正末期から昭和初期に建てられたと言われる。毎月1日の16時から。

☆京橋行者堂(都島区東野田1丁目1)

 都島区だが、護摩焚きをしている行者講を紹介する。毎月23日の18時から19時まで護摩焚きをしている。

 

【参考文献】

『城東区広報誌ーふれあいJOTO』(2025年1月号、城東区役所総務課発行)

 

 

アメリカ国立公文書館所蔵写真展

 大阪城公園にある戦争ミュージアム「ピースおおさか」で開かれている写真展を見ることができた。今日(10月2日)は日差しは強く、カラッとした暑さだ。地下鉄森ノ宮駅で下車して、バリアフリーのコースで会場に着いた。

 大阪城公園はインバウンドの観光客で賑わっている。日本語よりハングル、英語、中国語などの外国語が飛び交っている。

 誰も気づかない場所にここが軍事基地であったことを示す石の標が立っている。

f:id:higachanntan:20261002223422j:image↑陸軍用地の標

 

f:id:higachanntan:20261004142820j:image↑写真展のチラシ
f:id:higachanntan:20261004142821j:image↑↑同上

 写真展「アメリカが見た戦中・戦後の大阪-アメリカ国立公文書館所蔵写真展-」が2027年3月28日(日)までピースおおさかで開かれている。

f:id:higachanntan:20261002224045j:image↑「アメリカが見た戦中・戦後の大阪-アメリカ国立公文書館所蔵写真展-」

f:id:higachanntan:20261002224005j:image↑同上

f:id:higachanntan:20261002224819j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224820j:image↑同上
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f:id:higachanntan:20261002224822j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224821j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224824j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224825j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224826j:image↑同上
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f:id:higachanntan:20261002224828j:image↑同上

f:id:higachanntan:20261002224940j:image↑同上(大阪城前で。大阪市警視庁の立札に注目されよ)
f:id:higachanntan:20261002224939j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224942j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224943j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224941j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224944j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224945j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224946j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224947j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224948j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224949j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261002224950j:image↑同上

f:id:higachanntan:20261002225044j:image↑同上

 貴重な写真の数々を見て、懐かしい大阪の建物が出てくる。今はなき建造物が写真に写っている。懐かしいものもあるよね。

戦中・戦後の大阪をアメリカ人(占領軍)にはどう見えていたのか。占領軍の若い兵士が日本人にどう接していたかがわかる。この特別展を見逃さないようにおススメしまっせ。

 

 

蒲生と鯰江川

 『作家川端の基底』(羽鳥徹哉著、教育出版センター刊、1979年)を借りて読んでいる。「川端康成の親戚たち」に蒲生の秋岡義一の名が出てくる。

 

 城東区蒲生三丁目交差点(城東警察署が北東角にある)を南下する。道は上り坂になる。

f:id:higachanntan:20260419235011j:image↑想定浸水深
f:id:higachanntan:20260419234955j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260419235002j:image↑城東警察署から旧村道を行く
f:id:higachanntan:20260419235032j:image↑野崎街道の手前の提灯(杉田善右衛門家の御神灯)

 

  野崎街道(古堤街道)と交わる角に旧鯰江村蒲生の秋岡家の塀があった。正福寺(浄土真宗本願寺派)の南にある。今は改築されて、かつての面影はない。

f:id:higachanntan:20260420000710j:image↑旧鯰江村蒲生の秋岡家の塀の一部(『作家川端の基底』の口絵より転載)
f:id:higachanntan:20260419234951j:image↑旧鯰江村蒲生の現在の秋岡家(同じ角度から撮影)
f:id:higachanntan:20260419235024j:image↑聖賢歩道橋から見た風景

 阪俗研の田野代表のお好きな歩道橋に登った。おや、これは。蒲生の町並みが見えるではないか。砲兵工廠に近いので、職住近接の土地に工員たちが住み出してできたのが蒲生だ。
f:id:higachanntan:20260419234958j:image↑聖賢歩道橋
f:id:higachanntan:20260419234947j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260419235045j:image↑聖賢歩道橋から西を見る
f:id:higachanntan:20260419235006j:image↑聖賢歩道橋から南を見る
f:id:higachanntan:20260419235028j:image↑旧鯰江川(東を見る)
f:id:higachanntan:20260419235036j:image↑旧鯰江川(西を見る)
f:id:higachanntan:20260419235016j:image↑旧鯰江川から見た建物

 秋岡(義一)さんの家は大きな家で、聖賢小児童であったボクでも知っていた。鯰江町の初代町長が秋岡義一で、彼は衆議院議員にまで上り詰める。また、京阪電鉄の重役でもあった。酒造家で、蒲生のあちこちに不動産を持っていたことは旧土地台帳から見てとれる。

 

 『作家川端の基底』から秋岡家の家系について引用する。

 「古堤街道(野崎街道)を京橋から東へ行くと、白壁の塀をめぐらした豪邸があった。塀はなくなったが。蒲生の秋岡家だ。酒造の家で、秋岡家は交野に引っ越して、隣家の分家岩蔵氏の子孫が住んでいる。

 秋岡家の過去帳、第十代義一執筆の家史草稿等によると、二代目伊兵衛が元禄十三年に酒造業を始め、以後秋岡家は代々伊兵衛を継ぐ。分家岩蔵は四代目伊兵衛から出た。

 九代目伊兵衛は、八代目の娘たねに、御供田村恩智宗右衛門三男栄三郎が入婿した。栄三郎が格別家業を盛んにした。維新当時二十万という大金を有していた。「酒屋金持、治兵衛さん地持ち、村の誰やらさんめかけ持ち」と蒲生では言われていた。『東成郡誌』では、明治初年、秋岡義一が蒲生村の戸長をしていた。

 十代目義一は文久三(1863)年五月十一日に出生した。漢学を学び、大塩中斎(平八郎)に私淑し、知行一致をモットーにした。

 明治十六(1883)年、21歳で豊里三番の黒田善右衛門家の次女タニ(17歳)を娶る。翌年、家督相続する。20年、海防費を献金して黄綬褒章を受ける。21年、私立天王寺養蚕伝習場を設ける。22年4月、27歳で鯰江村村会議員に当選。6月、村長に推された。24年、東成郡選出の府会議員に当選した。」

 

 ノーベル文学賞受賞した川端康成と秋岡家・黒田家とは親戚関係で深いつながりがある。

 川端康成は、1889(明治三二)年6月14日に大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現北区天神橋1-16-12)で生まれる。父栄吉は肺結核を病み、大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄82番に平家を建てて療養。後に姉芳子と康成は母の実家大字三番745番(現東淀川区豊里)に預けられる。

 1901(明治三四)年1月17日、父栄吉肺結核で死去(32歳)。

 1902(明治三五)年1月10日、母ゲン肺結核で死去。(38歳)。祖父三八郎、祖母カネに引き取られて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村11番屋敷(現茨木市宿久庄1-11-25)に家を建て三人で暮らす。姉芳子は既に母の妹タニの婚家先、秋岡義一方(現大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷、現城東区蒲生)に預けられていた。祖父三八郎、秋岡義一、黒田秀太郎が契約を交わし、母ゲンが実家に残した遺産(芳子の婚費として積立てられた3100円の利息分)のうち毎月23円25銭を、秋岡に代わり黒田が仕送りすることとする。

 1908(明治四一)年、秋岡義一が衆議院に返り咲く。1884(明治二七)年に初当選していた。

 1908(明治四二)年7月16日、姉芳子、高等小学校より下校後熱病にかかる。21日、芳子、心臓麻痺のため死去。15歳。通夜。22日、芳子葬儀。康成は病気で欠席。祖父三八郎も出席せず。称随尼(三八郎の養女)は行った。『川端康成と女たち』(小谷野敦著、2022年、幻冬舎新書)には「称随は三八郎の愛人であり、芳子の母であろう」と推測している。姉芳子とは父母の死後二度しか会っていないと川端は『父母への手紙』に書いている。

 1914(大正三)年7月、川端は西成郡豊里町の黒田秀太郎に引き取られる。9月から汽車で中学(大阪府立茨木中学校・現大阪府立茨木高等学校)に通う。(『川端康成詳細年譜』小谷野敦・深澤晴美編、勉誠出版、2016年)を参考にした)

 

 このように川端にとって、東淀川区豊里の黒田家と城東区蒲生の秋岡家は帰省すると帰る懐かしいふるさとなのである。「ただいま」と言って、玄関を入る川端の声が聞こえてくる。

 

 

阪大病院

 阪大病院といっても千里にある大阪大学病院ではない。福島区にあった阪大病院の思い出を語ろう。あれは35歳の時のことだ。

 

 生野区の公立中学校に勤務していた。昭和60(1985)年6月29日(土)、大阪駅南口に停まっていた大阪府赤十字血液センターの献血車で献血をした。月曜日の午前に職場に電話がかかってきた。「血液センターの者です。肝臓の値(血清トランスアミナーゼS-GPT)が非常に高いので、至急に総合病院で診察を受けてください。劇症肝炎もありますから。」と言われ、済生会野江病院に受診した。すぐに入院と決まった。入院3か月との宣告。突然、自由な生活から入院生活に入った。入院を初めて経験したのだ。

 B型肝炎をなぜ発病したのか。感染経路は三つある。セックス、輸血、母子感染。いずれにも当たらなかった。天王寺区の西下胃腸病院に入院した同僚を見舞ったことがあり、同僚がB型肝炎であったことが後日分かった。空気感染はしないのだから、見舞いで感染したことにならない。

 私は注射器の使い回しにあったのではないかと疑う。ウイルスが体内にあって、共存していたのが突然、肝臓を攻撃したのではと思っている。

 

 あの当時、B型肝炎の治療薬がなく、肝がんに移行すると言われていた。がん患者になると宣告されたと思ったのだ。担任であったし、通知票の作成も待っていた。いろんなことが頭の中で渦巻いていた。不安感が襲いかかってくる。

 9月になって、抗体ができたので職場復帰した。頭の真ん中に空洞ができて、思考がまとまらない。授業をしても生徒の反応がイマイチだ。なぜだ。担任も外れて、副担任になった。でも、おかしい。脳神経外科に受診すると、他科(精神・神経科)に受診を勧められた。そして、福島区の阪大病院を紹介された。

 阪大病院の名は知るが、精神科に行くのかと愕然とした。エレベーターで上がる。広い廊下の左右に診察室が並んでいる。患者も左右の長椅子に座っている。私も「キチガイ」(現在は放送禁止語)の仲間になったのかと思われた。

f:id:higachanntan:20260926115708j:image↑1937(昭和12)年頃の大阪帝国大学医学部
f:id:higachanntan:20260926115710j:image↑1958(昭和33)年の大阪大学医学部附属病院の正面玄関
f:id:higachanntan:20260926115712j:image↑1958(昭和33)年、阪大微生物研究所・附属病院
f:id:higachanntan:20260926115711j:image↑1961(昭和36)年、阪大蛋白質研究所竣工
f:id:higachanntan:20260926115709j:image↑1958(昭和33)年、阪大中之島地区全景(南側より)
f:id:higachanntan:20260926115713j:image↑1967(昭和42)年頃の阪大医学部附属病院

 主治医は頼藤和宏先生だった。一般向けの著書をたくさん書かれていた。毎月、国鉄大阪環状線福島駅で降りた。阪神電車の踏切を渡り、浄正橋交差点から裏道を行く。阪大病院の北門を入る。今のホタルマチはかつての阪大病院の跡だ。

 

 文久三年の古地図で大阪大学医学部附属病院(阪大病院)があった場所を特定しよう。「古代妄想」(田野登)でなく、近世妄想しよう。堂島川に架かる田蓑橋が見つけられたかな。北に渡れば、中之島だ。さらに北に流れているのが蜆川、架かる橋は梅田橋。「蜆川右岸を西に直進すれば、その名に芦間を偲ばせる芦間池がある。芦間池に通じる水路に蜆川沿いに架かる江口橋を渡る。江口橋を西に行き最初の三叉路の右手に上天神社の鳥居が見える。蜀山人はこの鳥居をくぐって詣でたと想像する。「芦分紀行」は、上天神の参拝を済ませて、鳥居を出て渡場町に出る。前途には浄正橋が蜆川に架かる。」(田野登著「芦分紀行ー近世の福島区域をめぐるー」『なにわ福島ものがたり』福島区歴史研究会、2012年、184頁)

f:id:higachanntan:20260930003223j:image↑改正増補国宝大阪全図・文久三年(1863年)

 

   国鉄福島駅から阪大病院までの経路を確定するため、10月6日に阪俗研の田野さんと辻さんと蜆川を歩いた。ユーモア小説で有名な『ボートの三人男』ではないが侃侃諤諤と話が弾んだ。

f:id:higachanntan:20261007012113j:image↑朝日放送(株)の南側(田蓑橋北詰)にある、改正増補国宝大阪全図・文久三年(2026年10月6日撮影)
f:id:higachanntan:20261007012109j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007012110j:image↑福沢諭吉誕生地(旧中津藩)
f:id:higachanntan:20261007012112j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007012111j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007012117j:image↑同上

 JR福島駅に午後1時30分に集合した。浄正橋商店街を南下。旧阪大病院周辺を調査した。江口橋と芦間の池を探索して、ある程度確定することができた。逆櫓の松跡までの画像はすべて2026年10月6日に撮影したものである。

f:id:higachanntan:20261007013141j:image↑大阪環状線から福島駅北を経て大阪駅に向かう列車
f:id:higachanntan:20261007013140j:image↑田蓑橋
f:id:higachanntan:20261007013142j:image↑芦間の池跡
f:id:higachanntan:20261007013143j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007013144j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007013147j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007013148j:image↑浄正橋交差点から阪大病院に向かうみち
f:id:higachanntan:20261007013149j:image↑ガソリンスタンドの敷地を斜め横断した患者もいた
f:id:higachanntan:20261007013150j:image↑旧阪大病院の北門があった場所(右がABCホール)
f:id:higachanntan:20261007013151j:image↑旧阪大病院の北門から浄正橋交差点に向かう道
f:id:higachanntan:20261007013155j:image↑同上
f:id:higachanntan:20261007013156j:image↑同上

 上天神南交差点から蜆川に沿って下流に歩く。浄正橋の碑が残っている。
f:id:higachanntan:20261007013157j:image↑上天神南交差点から西に行く。旧福島公設市場の北側にある「浄正橋跡」碑
f:id:higachanntan:20261007013158j:image↑福島史談会が設立したか
f:id:higachanntan:20261007013159j:image↑蜆川跡
f:id:higachanntan:20261007013203j:image↑逆櫓の松跡

f:id:higachanntan:20260929011602j:image↑旧阪大病院跡(現在:ホタルマチ・朝日放送)

 私と阪大病院との関係は、阪大が千里丘陵に移転して、終わることになった。今は地域の開業医の診察を受けている。その開業医の指導医が頼藤和宏先生だったそうだ。

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 頼藤和宏先生のご経歴を書いておく。

 1947(昭和22)年12月22日生。1972(昭和47)年阪大医学部卒。麻酔科、外科を経て1979年精神医学を専攻。阪大病院に勤務。1986年、大阪府中央児童相談所主幹。1997年から神戸女学院大学人間科学部教授に就任。1992年、52歳の時に直腸がんがわかる。入院後、手術をする。2001(平成13)年4月8日に死没。54歳で亡くなる。(「神戸女学院大学女性学インスティチュートのニュースレター」https://www.kobe-c.ac.jp/kenkyusho/nl/newsletter_200110_031.pdfを参考にした)

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 患者と医者の関係だったが、もっと頼藤先生と人生について語り合いたかったと今にして思う。

うつ病との付き合いも40年にもなる。

 

【参考文献】

○掲載の写真は大阪大学芸術文化センターで陳列されたものを使用している。

 

大宮神社

 大阪府の祭りの基礎調査のために旭区の大宮神社に足を運んだ。地下鉄谷町線千林大宮駅で地上まで階段を登る。ブツブツ言いながら。でも、目的は「大阪府 祭り・行事調査基礎調査」だから、大宮神社への道を急ぐ。

f:id:higachanntan:20260919222001j:image↑旭区地域防災マップ(2026年3月、旭区役所発行)

 

  国道一号線が南北に走っている。東側に千林商店街の入り口、西側に大宮商店街の入り口だ。

f:id:higachanntan:20260919203827j:image↑地下鉄千林大宮駅

f:id:higachanntan:20260919204311j:image↑千林商店街

f:id:higachanntan:20260919204344j:image↑大宮商店街

 大宮商店街の北側にお地蔵さんが鎮座している。お顔が上品だ。三枚の座布団の上に座ったいる。由緒を聞きたかったが、急いでいるのでやめにした。

f:id:higachanntan:20260920023822j:image↑お地蔵さん

f:id:higachanntan:20260920023936j:image↑お地蔵さんの祠

 大宮商店街は千林商店街ほどではないが、距離が長い。喫茶店、和菓子店、ホルモン焼き店、銭湯、郵便局など種々雑多の店が並んでいる。アーケイドがないが、個性的な商店街の一つである。

f:id:higachanntan:20260921020352j:image↑うだつがあがる民家

f:id:higachanntan:20260921020533j:image↑旭区には喫茶店が多い

f:id:higachanntan:20260921020719j:image↑和菓子店

f:id:higachanntan:20260921020824j:image↑ガチャガチャの店

f:id:higachanntan:20260921021410j:image↑銭湯

f:id:higachanntan:20260921021522j:image↑ホルモン焼き店

f:id:higachanntan:20260921021629j:image↑商店街の舗装路

f:id:higachanntan:20260921021750j:image↑喫茶店

f:id:higachanntan:20260921021852j:image↑善立寺

f:id:higachanntan:20260922143027j:image↑古民家
f:id:higachanntan:20260922143029j:image↑蔵
f:id:higachanntan:20260922143028j:image↑郵便局

 

 10時にご説明をいただくと前日に神主さんとお約束をしていた。廣瀬宮司に応接していただく。夏祭りよりも10月に挙行される「秋祭り」について教えていただいた。一の鳥居跡に区役所が「説明板」を設置したと宮司さんから聞いた。大宮神社からまっすぐ南下したらわかるので、歩くことにした。
f:id:higachanntan:20260922143030j:image↑大宮神社
f:id:higachanntan:20260922143031j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922143033j:image↑同上(杉田善右衛門建之-城東区の大地主)

  旭区にゴルフ練習場(旭東ゴルフガーデン)がある。近くに「スギタ高殿ハイツ」がある。私の記憶ではゴルフ練習場も杉田家の地面ではないかと思う。

f:id:higachanntan:20260922143903j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922143902j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922143905j:image↑同上

 大宮神社に残る昔の境内古図には、京街道に面する旧大宮1丁目(今は高殿4丁目)に一の鳥居があり、神社の馬場先まで道の両側に松並木があった。長さ12町(約1300m)あった。『旭区地域史』(令和4年12月、旭区制90周年記念事業実行委員会・大阪市旭区役所発行)より引用

f:id:higachanntan:20260922143906j:image↑大宮神社からまっすぐに歩く
f:id:higachanntan:20260922143904j:image↑パン屋さん
f:id:higachanntan:20260922143908j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922143909j:image↑電信柱
f:id:higachanntan:20260922143910j:image↑蔓に覆われた家
f:id:higachanntan:20260922143911j:image↑畳屋さん

 

 見覚えのある通りに出た。柳通りだ。旭区の官庁通りだ。区役所、消防署、税務署、郵便局、図書館、区民ホールが集まっている。

f:id:higachanntan:20260922161739j:image↑望楼のある旭消防署
f:id:higachanntan:20260922161738j:image↑旭区役所内にあるバスの時刻表
f:id:higachanntan:20260922161740j:image↑区役所の北側にある長屋
f:id:higachanntan:20260922161742j:image↑区役所前の花壇に咲く鶏頭
f:id:higachanntan:20260922161741j:image↑大宮霊園
f:id:higachanntan:20260922161743j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922161744j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922161745j:image↑西大宮橋から北を見る

 城北川(旧城北運河)を渡る。産業遺産的な人工運河だ。今でも寝屋川の水質保全をしている。
f:id:higachanntan:20260922161746j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922161747j:image↑同上

 旭公園が隣接している。緑が多い地域だ。
f:id:higachanntan:20260922161748j:image↑大阪府立旭高等学校
f:id:higachanntan:20260922161749j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922161750j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922161751j:image↑同上

 最近、城東民主商工会と東成民主商工会が合併して、大阪ひがし民主商工会になった。大宮神社の参詣道に面して、民商があるとは知らなんだ。
f:id:higachanntan:20260922161752j:image↑旭民主商工会

 この新築マンションは完成まじかだ。以前は何があったのか。ゼンリン住宅地図(2021年10月発行)を見ると、そこにはココカラファイン旭高殿店とその駐車場、まるとく市場はやし高殿店・100円ショップ、カンゾーパーク駐車場があった。

f:id:higachanntan:20260922161753j:image↑新築マンション

  さらに南下していく。うなぎを焼くにおいがしてきた。「うなぎの魚伊」さんだ。駐車場も備わっている。においに惹かれて、店内のカウンターに座った。お腹が空いて、喉も乾く。メニューを見る。一番安いうな重が2500円。注文をせずに立ち上がろうとしたが、そんなことはできない。仕方なく注文した。

f:id:higachanntan:20260922162733j:image↑うなぎの魚伊
f:id:higachanntan:20260922162734j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162736j:image↑同上(うな重)
f:id:higachanntan:20260922162737j:image↑魚伊から北を見る
f:id:higachanntan:20260922162735j:image↑京街道
f:id:higachanntan:20260922162738j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162739j:image↑京街道の碑
f:id:higachanntan:20260922162740j:image↑京街道
f:id:higachanntan:20260922162741j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162742j:image↑一の鳥居跡に「説明板」がある
f:id:higachanntan:20260922162743j:image↑京街道の七曲がり
f:id:higachanntan:20260922162744j:image↑通りを渡ると、城東区の関目神社が見える
f:id:higachanntan:20260922162745j:image↑京街道の七曲がり
f:id:higachanntan:20260922162746j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162747j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162748j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162750j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162751j:image↑マツダビル(地下に商店街がある)
f:id:higachanntan:20260922162752j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162753j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162754j:image↑関目高殿交差点から見る京街道
f:id:higachanntan:20260922162755j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162756j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260922162757j:image↑同上

 大宮神社の馬場先から一の鳥居跡まで歩いた。京街道の七曲がりから関目高殿交差点先まで京街道をたどった。大宮神社の神域は今よりはるかに広かったかと思われる。

 京街道に付かず離れず、京阪電車が平面を走っていた。天満橋駅を出て、蒲生(現在の京橋駅)を出ると京都(五条)まで町の灯りはなかったであろう。かつて京阪電車は「観光電車」と言われていた。夜、大宮神社から京阪電車のヘッドライトはどのように見えていたのだろうか。