1995年1月17日午前5時46分に震度7の地震が神戸や淡路島を中心に起きた。城東区は強震だったが、周辺の建物には被害が少なかった。
大阪市バスが動いていた。太子橋今市で上新庄行きのバスも動いていて、大桐2丁目で下車した。徒歩で職場に向かった。遥洋子の住んでいた市営住宅を横に見て、大阪経済大学大隅キャンパスの前を横切り、中学校の正門に入った。その日、もちろん授業はなかった。電車が不通のため教員が出勤できなかった。テレビを通じて、阪神間の惨状がわかってきた。
1週間後、阪神間に住む友人を見舞うため、阪急電車神戸線の西宮北口駅まで乗車した。その先は震災で不通であった。木造の家々がぐしゃっと潰れていた。塀も倒れていた。避難所まで訪ねて、体育館の中で友人の名前を大声で叫んだりした。阪急今津線を北上した。不通なので、線路を歩いた。新幹線の高架橋が落ちていた。リュックの中にチーズやいなり寿司などを入れていた。妻はその先の逆瀬川駅まで歩いたという。西宮北口駅前には公衆電話がずらりと並んでいた。自宅の固定電話は規制がかかっていて、通じなかった。携帯電話は台数が少なく、通じやすかったそうだ。
高明な洋画家・津高和一(1911~1995)のご自宅が潰れていた。西宮北口駅に至る西宮市高木西町9-6にあった。
自宅が倒壊、はりの下敷きになって妻とともに死亡した。83歳。ご遺体は地震の翌日の1月18日午前7時半頃に近所の住人が津高の右足が瓦礫の間から見えているのに気付き、通報を受けた西宮市職員が発見した。西宮市大谷記念美術館で個展を開催する準備にとりかかっている最中の被災死であった。(東京文化財研究所データベースより引用)
一枚の紙に消息が書かれていた。文面を記憶していないが、死亡の告知であったと思う。大阪芸術大学名誉教授であった。ご冥福を祈った。今から思えば、なぜカメラを持っていかなかったのかと後悔もある。「撮影する」重みを感じていたからだ。
西宮北口駅から神戸線が通じていて、十三駅や梅田駅まで行けた。十三駅で降りると銭湯にも入れる。梅田駅まで行けば、デパートで買い物も楽しめる。今までの平穏な生活が営まれていた。
その後、ボランティア休暇(2日)を取って、民医連の車に同乗して、大阪市から兵庫県に入る。
↑JR神戸駅のゼロKポスト
↑神戸市立長田中学校
↑鉄人28号のモニュメント
長田区にボランティアとして入った。神戸に近づくにつれて、被害の甚大さがわかる。国道43号線を走る。阪神高速道路神戸線の高架が倒れている。巨大な高架道路を倒す自然の猛威に恐怖を覚える。番町地域に着いた。鉄筋の市営住宅が斜めに傾いている。住宅の壁にはクラックが入っていた。市営住宅に残る被災者に食品や水を配る仕事だった。神戸市立西市民病院の五階が潰れていた。道路を歩く。ガソリンスタンドだけが被害も受けずに残っているのが異様だった。マスク(布マスク)をして歩いた。今では高性能のマスクをするのだが。アスベストも空気中を漂っていただろう。神戸高速鉄道の大開(だいかい)駅が地震で潰れていた。
昼食をどこで食べたか覚えていない。行動が終わると、東神戸病院でボランティアの集約をした。そこから大阪市内のターミナル駅で解散した。
休暇を二日間取った。インフルエンザに罹り、自宅で伏せった。何のためのボランティア休暇かと自責の念に駆られた。
私の震災記に教訓が含まれていたら、ぜひ参考にしていただきたい。