治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部事務局長(漢字21文字も)であった
塩田一行氏が先日コロナで亡くなった。事務所を訪問するたびに資料の提供を受けた。
学恩のある方だった。74歳で泉下に行かれた。
今年のことだ。『彫刻家 浅野孟府の時代』(浅野詠子著)を読むように言われた。
パラパラと頁をめくると惹きつけられた。本屋で実物を手に取り、購入した。
浅野と同姓だが、親子でも親戚でもないそうだ。この労作のおかげで孟府の人生が
浮かび上がってくる。
浅野(以後、彼に統一する)は、「八面六臂」の活躍で多数の作品を残した。彼は
昭和初期に人形劇の世界から美術家人生を始める。大阪の東野田が「関西の新興
人形劇の草分け的な拠点」だったことに釘付けになった。
1996(平成8)年に出た『復刻 大阪人形座の記録』(阪本一房著)によれば、
1935(昭和10)年に大阪人形座が創立された。浅野孟府、小代義雄、多田俊平、
小林敏夫、柏尾喜八、利光貞三ら6人が同人であった。1940(昭和15)年8月
30日命令によって解散した。
1948(昭和23)年1月10日に大阪人形座は再建された。11名の同人は以下
に列記する。小代義雄、柏木茂弥、土田定子、野田博太郎、為田啓、今井清、北原英
子、河本智恵子、野々原昌子、金谷花子、阪本一房。
1956(昭和31)年7月13日に上演活動を終わることになった。
『彫刻家 浅野孟府の時代』に戻る。人形劇団「トンボ座」が京橋・東野田6丁目(
現4丁目)にあった。今ではホテル街になっている区域だ。キャバレーやホテルが並び、
1950年生まれのわたしには近寄ってはいけない場所であった。国道1号線と環状線の
ガードが交差する所から西北部は風俗街で、ホテルから男女が出てきたり消えたりする
愛の消費する場であった。学齢の私にはネオン瞬く異空間であった。