大道俊の思い出

 大道俊の思い出と大上段に振りかぶった表現をしたが、それほどの邂逅ではない。私が話した大道さんは白髪のおばあさんだった。「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟って知っている?」と聞かれた。常識だから知っていると答えた。それ以外は記憶にない。ただ『不屈』という機関紙の名を覚えている。

 

 井上としの『深き夢みし−女たちの抵抗史−』に大道俊が詳細に描かれている。「愚直の革命家」と評価する。大阪市東淀川区大桐5丁目に大隅神社(村社)がある。それに接して大道製薬がある。

 1910年3月6日、大阪府西成郡大道村で生誕。大道家は乳牛山大院大道寺と大隅神社を所有していた。10人兄弟の末っ子であった。大道家の令嬢であり、私立梅花女学校に通学していた。 

 1933年6月に治安維持法違反で起訴される。1935年3月に釈放される。 

 戦後は全日自労婦人部長として、「谷口善太郎生活相談所」を拠点に活動する。晩年は民主運動の要職を退いて、1980年(70歳)に大桐5丁目(元大道村)で暮らす。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟で活躍する。

1997年12月6日に永眠する。入院先の大阪市東淀川区の成仁会病院で死去し、病名は心・肺・腎不全。原因は動脈硬化症であった。

 

 記憶の大道俊は、40歳ころの私が見たおばあさんだった。その後ろ姿は足取りがしっかりしていた。職員室に「組合の先生はいますか」と問われた。私しかいなかった。目の前に治安維持法で弾圧を受けた犠牲者が存在するのが不思議であった。小林多喜二宮本顕治三木清などの知識はあった。大道俊のことばは迫力があった。白髪の温厚なおばあさんから残酷なシーンの迫真感は感じられなかった。