片町線(京橋〜鴫野)の踏切名の由来

 片町線京橋駅を出て鴫野駅までには3つの踏切がある。東から順に鯰江踏切・馬の口踏切・新喜多踏切と並んでいる。鯰江と新喜多踏切は地名から付けられたと思われる。馬の口踏切はどうだろう。そんな素朴な疑問から踏切名の由来を考えてみた。

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 寝屋川と鯰江川(道路になる)に挟まれた細長い地形で、大阪市城東区東大阪市に地名が残る。旧長瀬川河床を「新喜多新田」と呼ぶ。開発者の鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の頭文字に由来する。今木屋(早瀬家)はのちに経営を握る。新喜多新田会所は新喜多東1丁目に残っている。また、森河内西2丁目の長瀬川に架かる「早瀬橋」の名は早瀬家に由来する。(『大阪の地名由来辞典』堀田暁生編)

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 新喜多踏切はJR京橋駅に近接していて交通量が多い「開かずの踏切」である。大阪市の都市計画では、JR片町線(俗称は学研都市線)を京橋駅から鴫野駅まで地下化する計画がある。実現すると、踏切がなくなる。そして、踏切名も消える。「馬の口」踏切の由来は永久に消える。

 「馬の口」とは何か。松尾芭蕉の『奥のほそ道』の冒頭。「馬の口とらへて老いを迎ふる者は‥」を想起する。馬方(馬子)である。馬に荷物や人を乗せて商売をする人のことだ。馬引き、馬追い、人足とf:id:higachanntan:20210707161600j:image

ともいう。(澤宮優『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』を参照)

 土地の古老に聴いた。「馬の口」とは馬力屋や馬力引きのことだそうだ。城東区新喜多あたりにガラス工場が2〜3カ所あったという。そこへガラスの材料や製品を運ぶ労働者(荷馬車引き)が必要になる。そして職住近接で労働者が住んでいた。生活は貧困を極めたみたいだ。そこには馬の飼料が積んであったりしていた。想像に余りある。

 

 そのガラス工場の一角に「鬼塚◯◯◯顕彰碑」なるものが建っていた。出稼ぎにきていた朝鮮人をガラス工場で手厚く遇した鬼塚なる人物に感謝の意を表したものだ。10年前に有志が建てたらしい。現在はガラス工場もなく、その碑もない。

 

 「馬の口」踏切の名には、隠れた歴史があったのだ。