京橋駅空襲被災者慰霊祭が67回を数える

 昭和20(1945)年8月14日、B−29(148機)が大阪砲兵工廠に大爆撃をした。そして、城東線(現・大阪環状線)に流れ弾の1トン爆弾が落ちて、交差する片町線に逃げ込んだ人たちに死傷者が出た。大きな穴ができて、城東線のレールは天を指して曲がる。たくさんの死傷者で阿鼻叫喚の修羅場であったと聞く。名前のわかった犠牲者は210人、無縁仏となった人々は500〜600人といわれる。犠牲者の遺体は、駅近くの空き地や小学校で焼かれた。(参考文献:『大阪の戦争遺跡ガイドブック』)

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 旧制中学に通っていた90代の男性は、天王寺から大阪駅に向かっていた。空襲警報が鳴る中で、止まった電車から防空壕に入ろうとした。しかし、満員で中に入れなかった。それが運命の分かれ目であった。助かったのだ。

f:id:higachanntan:20210815163743j:image米軍調べで8月14日にB29が145機押し寄せたらしい。そして、当日の空襲で大阪砲兵工廠周辺に全体で707トンもの爆弾が投下されている。(ピース大阪からの聴き取り)

f:id:higachanntan:20210815171128j:image空襲当時は片町線は単線であった。今は長尾・松井山手行きホームが、島状ホームであった。突き当たりに石垣とレンガが見える。これらは空襲後に補修された。

 

 毎年、慰霊祭に参加している。体験者で工業学校に通学されていた方のお話を聞くたびに、悲しみと怒りが込み上げてくる。敗戦記念日の前日である。「敗戦」がいつであったかという根本的疑問があるが。犠牲になった方々への思いは募ってくる。