2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

上町台地から船場へ

谷町四丁目駅から本町通りを下っていく。ホテルやマンションがにょきにょきと建っている。坂の途中に「浪曲親友協会」の事務所にある。そこに顔を出す。中田萬夫元事務局長(死去)の思い出話をする。元国鉄労働者だったとは知らなんだ。また顔を出すと約束し…

京街道(枚方宿)

「宿場町枚方を考える会」総会に出席するため、京阪枚方市駅に降り立った。駅で周辺地図をもらって、会場に着く。 せっかく枚方に来たのだから、京街道を歩く。駅前は市街地再開発事業が進行している。 白壁に「京街道案内図」が掲示されている落ち着いた街…

旭区の段蔵めぐり

湿度が増して、空模様が怪しくなる。千林公園横の交番で大楠(寶龍寺)への道順を聞く。年配のお巡りさんが丁重に教えてくれる。今市1丁目の狭い道を北に向かって歩く。四本の大楠は天然記念物に指定されている。最近、剪定したため、その大きさがわかりにく…

滝井新地の女(ひと)

滝井新地は雨だった。守口市滝井西町2丁目の一角にそれらしき料亭が並んでいた。どこも暖簾がかかっていなかった。夕方から営業が始まるのだが、調査に入ったのは午後も早い時間だった。 京阪電車側から見る滝井駅と千林駅の中間に位置する住宅やマンション…

城東区の歩道橋

城東区蒲生4丁目交差点を北に行くと、蒲生児童遊園がある。ここは元城東消防署が建っていた。第二室戸台風で火の見櫓が倒れた。それで前を通る国道1号線が一時不通になった。 その後に、現在地に城東消防署が移転してきた。 遊園の掲示板に「歩道橋」を潰…

滝井(千林)新地の聞き書き

旧古市村の段蔵を調査した時に、ある喫茶店の主人から聞いたことがあった。遅い昼食を食べようと入店した。軽い気持ちで地域の歴史について聞くと、主人の口から興味深いことを聞くことができたのだ。以下は喫茶店主からの聞き書きである。 【千林商店街の近…

天王田の段蔵

城東区天王田(てんのうでん)にも広義の段蔵がある。 道を隔てた北側に楠根川(旧大和川)が流れていた。邸宅の北東側に段蔵がある。 別の邸宅の蔵である。私有地のため、近づくことができなかった。 邸宅内にあるため、石垣の高さは不明である。同姓の邸宅が固…

蒲生の段蔵

蒲生4丁目の、古堤街道の北に資産家の邸宅がある。生駒山まで、他人の土地を踏まずに行けるほどの広大な土地を保有したと言われる資産家だ。今は株式会社になって、遺産相続対策をしている家と言われる。蔵が道をはさんで残っている。 蔵を活用して、食事が…

上六の東高津宮

百楽本店を北に行くと、村社の東高津宮にたどり着く。 この神社の現住所は、天王寺区東高津町である。しかし、この社はかつて東高津南之町にあった。近鉄上本町駅の九番線ホームあたりにあった。昭和七年、大阪電気軌道(略して大軌、現在の近鉄電車)の駅舎…

旧大阪電気軌道(大軌)ホテル

大軌という会社名は私には馴染みのない名前である。近鉄の方が馴染み深い。近畿日本鉄道、近鉄バス、近鉄不動産など。城東区に「大喜橋」という、城北運河(城北川)に架かる橋がある。近くにあった病院で同室になった男性が教えてくれた。大軌四条畷線「大軌…

鴫野東の段蔵

灯台下暗しと言おうか、自転車で鴫野西から鴫野東へと足を伸ばした。段蔵があるではないか。 北河内・高槻市に目を向けていたが、大阪市内の旧東成郡(旭区・城東区・鶴見区・都島区・東成区・生野区)に調査をしていきたい。 まず、「段蔵」の定義から明らか…

上町台地西端の崩落現場

2021年6月25日、上町台地西端の住宅の崩落事故はマスコミを賑わせた。現場には記者たちが崩落を期待して屯していた。 最後の一軒が西成区側に立っていた上町台地西端に位置する。急傾斜になっている記者たちは何を待望しているのか住民たちは一躍マス…

上六の百楽が閉店

シャンソンコンサートの帰りに東高津町を歩く。上六の百楽が閉店の紙を貼っていた。 ↑旧関急ホテルの西側 ↑旧関急ホテルの玄関 ↑旧関急ホテルの向こうにシェラトン都ホテル大阪の威容が見える ↑東側にコインパーキング ↑蔦が絡まっている 関急ホテルだったと…

千林の段蔵を訪ねて

地下鉄千林大宮駅から東に向かって、千林商店街を歩く。旧京街道と交差する。さらに京阪電車千林駅に向かう。鴫野西の内山さんに教えていただいた。大庄屋が並び、城東区の関目・古市あたりの農地を経営していたそうだ。 大阪市詳細図(古市連合振興町会区域…

真田山陸軍墓地の花見

4月1日に花見をするといえば、四月馬鹿かと思われるだろう。 玉造の眼医者で診察を受けた後のことだ。左目に大腸がんの抗がん剤を注射するのだ。三万円を支払うのだ。年金暮らしには堪える。仕方がない、根本的な治癒方法はないのだから。来月に注射の予約…

光善寺の段蔵

光善寺の門前を旧京街道が通っている。『蓮如上人と光善寺』(平成九年、光善寺発行)によれば、蓮如上人が北陸地方の吉崎御坊から河内国出口に草庵を建てて、三年間教化に努めた。文明七(1475)年の八月のことである。 山号が淵埋山(えんまいさん)という。…