城東区にある市設霊園②

 新喜多(しぎた)は難読町名だと思う。「しんきた」と読まれることが多い。新喜多の名前は、鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の頭文字を取ってつけられた。鴻池新十郎は土木業者、鴻池喜七は金融業者で、新田経営には関心がなかった。それで長堀の材木商である今木屋多兵衛に任された。今木屋は早瀬姓を名乗る。子孫は芦屋在住と聞く。今も新喜多東1丁目(旧住居表示では新喜多4丁目)に株式会社早瀬新喜多事務所(新喜多新田会所跡)があり、石碑が立っている。今木屋の出所は、東大阪市の早瀬橋(近鉄バスの停留所に名を止める)あたりと言われる。

f:id:higachanntan:20210827215123j:image新喜多新田会所跡

 

 『日本歴史地名大系』によると、新喜多新田は宝永元年(1704年)の大和川付け替えによってできた村である。大阪市北区新喜多町(大阪市都島区片町2丁目)から東に細長く延びた地域である。幅47間、長さ20町、反別27町余り。現在の住居表示で言えば、河内国若江郡新喜多新田(東大阪市)から城東区諏訪1丁目・永田1丁目・天王田・新喜多1〜2丁目・新喜多1〜2丁目、都島区片町2丁目までの区域である。

 

f:id:higachanntan:20210827215819j:image新喜多大橋の南詰

f:id:higachanntan:20210827215708j:image新喜多橋(新喜多大橋の上流にある)

f:id:higachanntan:20210827215917j:image耐火煉瓦を製造する会社

f:id:higachanntan:20210827220513j:image貞徳舎株式会社の工場を北から見る