鴫野東の段蔵

 灯台下暗しと言おうか、自転車で鴫野西から鴫野東へと足を伸ばした。段蔵があるではないか。

北河内高槻市に目を向けていたが、大阪市内の旧東成郡(旭区・城東区鶴見区都島区・東成区・生野区)に調査をしていきたい。

 まず、「段蔵」の定義から明らかにしたい。

 内田秀雄・中井稔(昭和37年)の研究を引用したい。内田・中井は「屋敷の北西隅に石垣を築き、母家よりもやや高く、建てられて」「洪水、大風などの災害に対処」し、「平時に家具、夜具、衣装、米穀などがしまって」「地域によっては舟(陸舟)なども収めてある」ものと定義している。

 「連立段蔵」が典型的な段蔵と言えよう。すなわち、屋敷の西北側にあり、東から西にかけて石段を順次高くし、それが段状になっているものである。土蔵が2〜3棟並んで連立的なものが「連立段蔵」と言えよう。しかし、一棟の土蔵も広く言えば段蔵と呼んでもいいだろう。

f:id:higachanntan:20220408141816j:image城東区鴫野東の段蔵(かつて養鶏場を営んでいた)
f:id:higachanntan:20220408141825j:image京橋に続く道の段蔵
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f:id:higachanntan:20220408141820j:image鴫野東の段蔵(西之町のだんじり蔵)
f:id:higachanntan:20220408141828j:image裏から見た鴫野東の段蔵

 段蔵に何が収納されているのかが気になる。所有者によって差異があるだろう。

 他の地域だが、居住できるようにリフォームしている段蔵もある。また、段蔵の機能も果たしていないのもあろう。無用の長物と化しているのもある。それが段蔵が消える理由の一つになっている。