阪俗研の田野代表から段蔵の情報をいただいていた。いつでも行けると思っていた、福島区玉川町4丁目。大阪市史編纂所の『編纂所だより』(第60号)に「二十一人討死之碑」が取り上げられているので、余計に興味が湧いた。「だより」は、①「二十一人討死」の逸話、②建立の経緯と目的、③戦後の移転からなっている。
玉川4丁目あさひ銀行前(今はマンション)に「野田城趾」の碑がある。石山本願寺があった1530年代に砦(野田城)があったという。1570年に織田信長と対抗していた三好三人衆によって砦は補強された。織田信長の勢力下に置かれ、重要拠点になった。
↑「野田城趾」の碑
↑同上(今はマンション前にある)
↑同上
玉川コミュニティセンターへ行く途中にりっぱな邸宅が見える。北西には段蔵らしき蔵が見える。足場が組まれていて、工事予定とわかる。
↑玉川4丁目の長屋
↑玉川4丁目の邸宅
↑同上
↑段蔵
↑敷地の北西隅に建つ
↑邸宅
↑同上
↑段蔵か
玉川4丁目の地図で確認しながら、玉川コミュニティセンターに向かう。敷地内に「二十一人討死之碑」があり、天文ニ(1533)年に起きた事件である。
天文元(1532)24日、本願寺第十世の証如上人(17)は近江を本拠地とした戦国大名六角定頼の襲撃を受け、山科から大坂に逃れた。そして、翌年8月9日に奇襲を受ける。野田村・福島村の門徒が鋤・鎌・鍬などで防戦した。二十一人の門徒が討死をする。逃げのびることができた証如上人は感激して、「討死の御書」をしたためて野田村の門徒に託したといわれる。
↑玉川4丁目の地図
↑アジサイ
討死事件から約400年後の昭和15(1940)年に碑が建立される。皇紀二千六百年記念(「神武天皇」の即位から2600年経った記念)して、第一西野田青年団が建立したのが「二十一人討死之碑」である。元の建立地は、現在の大阪市立下福島中学校の付近にあった。11月17日に石碑の除幕式が開催された。
石碑は太平洋戦争で被害を受けたが、元青年団有志の手で昭和32(1957)年と昭和38(1963)年に修復されたらしい。昭和50(1975)年に下福島中学校のプール建設のため、玉川コミュニティセンターに移転された。『編纂所だより』には、下福島中学校の校舎裏に「二十一人討死之碑跡」という小さな石碑があると書かれている。未確認なので、今後調査したい。
↑二十一人討死之碑(玉川コミュニティセンター敷地内)
↑同上
↑裏面
↑説明板(建碑由来と二十一人討死之碑移設の由来)
浄土真宗本願寺派居原山円満寺の門前には、石灯籠と「二十一人討死之碑」がある。円満寺(本願寺派)、極楽寺(大谷派)、南徳寺(大谷派)に伝承する寺伝と文書が残されているだけで史実としては確認されていないと『福島区史』(平成5年4月1日発行)に叙述している。
『わたしたちの町 玉川』では、21人の門徒をとむらうため、墓のあったところに極楽寺が建てられた。また、同じころ建てられた円満寺にも証如上人の遺跡や21人討死の供養塔があると書かれている。
↑証如上人御由緒
↑信受院殿御旧跡
↑野田村二十一人討死御由緒、本願寺第十世・證如上人御旧跡の説明板
↑同上
↑同上
↑円満寺
円満寺からほど近いところに、恵美須神社がある。広い神域を歩いていると、ほっとひと息がつける。
↑「神域拡張」の説明板
↑神域拡張記念碑
↑同上
↑明治三十七八年戦捷記念碑
↑同上
↑同上
↑狛犬の説明板
↑鳥居
↑神域拡張碑の裏面(氏子総代)
今は新興住宅地になっているが、元喜久家旅館(田中邸)が建っていた場所が恵美須神社の南にある。
田中家は22代以上続く庄屋の家系。『季刊SOFT』(1995年冬号)に昭和の都市型庄屋建築として紹介されている。田中藤三郎が昭和四(1929)年に建築を決意。銘木をふんだんに使い、3年半の歳月をかけて完成させた建物。豪邸の敷地は約三八◯坪も。全二五部屋、畳数九五畳、土蔵は道具蔵と納屋蔵、井戸が五本。
田中藤三郎は明治十八年十一月生。職業は家主。当時の現住所は大阪市此花区玉川町二ノ一三。「氏は大阪府田中嘉吉の二男にして大阪市に生れ、先代市松の養子となり大正十五年家督を嗣ぐ、夙に質商を営み後之を廃し現時家主たり、曩に大阪府多額納税者たり」「養父市松(慶應元年生)、養母うの(明治十年生、大阪府中里淺治郎姉)、妻キク(明治二十年生、養父市松長女)、長女久子(大正十一年生)、三女信子(大正十三年生)」
田中きく(家付き娘)は三五年間玉川婦人会長や大日本国防婦人会大阪市此花区第一西野田分会長をしていた。藤三郎はあちこちに借家をもつ不動産業を営んでいた。
昭和二十一(1946)年、娘の久子(家付き娘)は従軍獣医の夫と結婚して家を継いだ。GHQが突然に接収する連絡が来た。久子は旅館を経営することになる。中央卸売市場の上客のみを泊めることにした。一晩に八◯人も泊めたことも。
昭和四十五(1970)年九月十四日、大阪万博終了とともに廃業した。そして、もとの不動産業に戻った。雑誌掲載時(28年前)、久子は七ニ歳であった。
かつての豪邸はなく、雑誌の写真を見て偲ぶしかない。
↑元喜久家旅館の跡
恵美須神社の鳥居を過ぎて、野田御坊極楽寺に向かう。あいにくご住職はお留守であった。
↑証如上人御旧跡
↑極楽寺
↑同上
↑段蔵
↑同上
↑同上
↑同上
福島区も広うございますねえ。電柱に「洪水推定深」の表示がされていればいいのにと思う。土地の標高が低いとは思えど、視覚に訴えないと危機感が湧かないのでは。
【参考文献】
『第一西野田郷土誌』(昭和10年11月24日発行、乾市松著)
『わたしたちの町 玉川-歩み続けて120年』(平成6年11月19日発行、大阪市立玉川小学校)
『野田藤と圓滿寺文書』(2003年6月30日発行、圓滿寺)
『人事調査録』(昭和10年)
『季刊SOFT』(1995年冬号)