福島区で「二十一人斬り」があったらしい。生野区では「鶴橋七人斬り」が大正十二年にあったことを「あじろ書林」店主の足代健二郎氏から教わり、その跡を訪ねてみた。
市バス猪飼野橋停留所を降りた。生野区には一条通、二条通がある。三条通は今の今里筋に当たると俗説にいう。
↑市バス猪飼野橋
↑近鉄ガードの向こうは東成区になる
↑墓道(はかみち)は鶴橋墓地に至る東西の道
↑旧西の川から西を見る
↑墓道
↑猪飼野橋から南東に走る道(旧西の川)。
↑猪飼野橋の向こうに近鉄ガードが見える
↑猪飼野橋交差点の東南の隅に、小さな祠と鳥居が建っている。
鳥居の額に「柳丸龍王」と書いてある。手水鉢に「今里新地◯◯席 昭和十年七月吉日」と『猪飼野郷土誌』にある。それを見つけることはできなかった。今里新地は御大典(天皇の即位式)の翌年、昭和四年十二月に開業した。今里新地とは距離的に近いから、さもありなん。
↑百度石
↑鳥居の扁額
↑稲荷社
↑同上
さらに旧西の川を南下する。親子地蔵尊が見えてくる。
↑親子地蔵尊
↑母親の裾に一人の子どもがすがりついている。もう一方の手に子どもが抱かれている。また一人は膝元で戯れている
↑親子地蔵尊
↑同上
↑西の川側から親子地蔵尊を見る
↑周辺の街並み
↑墓道
↑同上
↑今里筋と墓道が交差している
親子地蔵尊が建立されるまでの経過を『猪飼野郷土誌』から転載しよう。
「地蔵堂は、墓道(寿橋の通り)が西ノ川を渡る所(交楽橋という橋がかかっていた。現在信号)の手前にある。
鶴橋耕地整理事業の最大の眼目であった新平野川開削の竣工を間近にひかえた大正十二年二月十三日の未明、世に言う“鶴橋七人斬り”の惨劇が起こった。
当時の大阪朝日新聞の号外によると、
市外鶴橋町字猪飼野の町外れの一軒家なる養鶏所◯◯方へ、十三日午前二時頃何者とも知れぬ凶漢押入り台所で熟睡中であった同人妻(47)、三女(19)、四女(17)、長男(12)、五女(9)、六女(7)、七女(3)の七人に短刀ようの凶器を以て滅多やたらに斬りつけ、妻◯◯ら四人をその場に惨殺、他の三人は瀕死の重傷のまま犯人はその場を逃走した。所轄署ではただちに大活動を開始したが未だ何者の所業とも目星がつかない。主人◯◯は同夜は母屋に寝ず別の小屋に就寝したいたので危く難を免れた。同家は相応裕福で且つ倹約家であるが人に怨みを受けている家でもないと」と報道した。
事件は迷宮入りした。被害者感情はいかばかりであっただろう。処罰されるべき犯人は逃げおおせた。一人残った主人の感情は想像するに余りある。被害者の供養のために地蔵尊は建立された。石標の裏に「大正十二年十二月建之」とある。
今里筋を渡り、墓道を西へ歩く。鶴橋霊園の正門に着く。
↑墓道
↑鶴橋霊園正門
↑ユニークな看板
↑寿橋
↑同上
↑墓道
↑救世軍
↑同上
↑馬力屋が通ったであろう。馬の水飲み場だった
↑七福の辻の碑
↑碑の下部。「鶴橋自治会 南畝書」とある。当時の鶴橋自治会長・第十八代木村権右衛門氏が「七福の辻」と命名したという。
↑地図
コリアタウンに人出がある。商店街が賑わうのも地域振興にとってありがたい。しかし、猪飼野には在日・日本人を問わず、庶民の歴史が残っているのを観光客には知っておいていただきたい。そして、地元の人々に迷惑にならないように猪飼野に関心を持ち続けていただけたら幸いである。
【参考文献】