大池橋交差点まで市バス(正確には大阪シティバス)を乗り継いだ。南東に大池会館(パチンコ店)がある。南東角に、かつて三鶴航空が入るビルを眺めていた。1階のビルの入り口を見ていた。吃驚した。昭和48(1973)年2月1日に猪飼野の地名は消えた。歴史的に由緒のある地名が残っているのだ。
↑城南興業ビルの住居表示
「大阪市生野区猪飼野8丁目11番地」となっている。現在は、大阪市生野区田島1丁目1-32。ここにも猪飼野が残っている。憑かれたように生野区役所に向かっていく。
途中に御勝山公園を通る。前方後円墳だが、方墳はなくなっている。円墳は柵で囲まれて入ることができない。勝山通の南側の御勝山南公園には、大阪管区気象台の碑がある。また、折口信夫文学碑も建っている。
↑御勝山公園
↑同上
(社会福祉法人)大阪市生野区社会福祉協議会で『生野区ふれあい福祉マップ』をいただく。それを頼りに猪飼野を歩くことにする。
旧岡村を歩く。桑津街道は高くなっているが、東側が坂になっている。東側が旧い岡村の地域になる。二人のご婦人が話している。「旧村の○○家を探している」と話を向けると、それまでの態度が豹変して「私らは岡の者でないから、わからへん」とそそくさと立ち去ってしまった。○○家には「南天の床柱」があったと足代健二郎猪飼野探訪会長から聞いている。
探偵と誤解されたのか。地図とコンパス、そして勘で進むほかあるまい。
↑日露戦役記念標
↑弥栄神社岡御旅所
↑銭湯(新曙温泉)
つるのはし跡は、かつて生野区の中学校に勤務していた頃に校下巡視で回った場所の一つだ。つるのはしは日本最古の橋といわれている。
↑つるのはし跡公園
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
疎開道路の西側の桑津街道筋に旧木野(この)村の氏神である弥栄神社が鎮座する。スサノオノミコトを祀り、江戸時代は牛頭天王宮と称した。明治以後、弥栄(やさか)神社と改称された。今では弥栄(やえ)神社と呼ばれている。
境内から西北を見ると、古い町並みが続いている。旧木野村の中之町(なかんちょう)と呼ばれ、長谷川姓の旧家の屋敷が多い。木野村庄屋の飯田邸は、弥栄神社の北側の小高い丘の上にある。大坂冬の陣の時、徳川勢に屋敷を提供し、その手柄によって飯田の苗字を名乗ることを許されたという。
↑弥栄神社
↑同上
↑同上
↑地域の旧家(長谷川家)
↑旧木野村の町並み
↑旧木野村庄屋の飯田邸
↑飯田邸の段蔵
↑同上
↑同上
↑旧木野村の集落
↑同上
御幸森神社から平野街道(のちの鶴橋街道)を南下した。御幸森神社は猪飼野村の氏神である。猪飼野村の古刹である浄土真宗大谷派安泉寺を通過して、広いモータープールの一角に大きな椎の木が見える。ここが木村権右衛門邸跡だ。椎の木は木村邸のご神木だ。「猪飼野から生駒の山すそまで他人の土地を踏まずに行けた」と逸話が残っている。太田南畝(蜀山人)の『葦の若葉』(享和元年(1801)刊)に「橋(つるのはし)の向かひに屋高く作れる家見ゆ。何がしの守の御苑にやと問ふに、権右衛門といヘる農夫の家なるよし。素封の類なるべし」とある。樹齢400年の椎の木のご神木と、立派な石灯籠、庭石が残されている。
木村家は木村重成(大坂夏の陣で討死した。享年23歳)の姉婿・猪飼野左馬助の子孫で、代々猪飼野村の庄屋を勤めていた。ご神木は重成公の御手植えと言われている。
↑弥栄神社を望む
↑御幸森商店街(コリアタウン)
↑御幸森神社(猪飼野の人々が反正2年(407))に天皇の神霊を祀ったのが始まりと伝えられている。
↑浄土真宗大谷派安泉寺
↑同上
↑木村権右衛門邸跡とご神木
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑道標
↑同上
さらに平野街道を南下すると、もと大阪市立鶴橋中学校が見えてくる。今は生徒たちの声は聞こえてこない。
↑もと大阪市立鶴橋中学校
↑同上
↑同上
↑同上
俊徳街道を辿っていく。能の「弱法師(よろぼし)」ゆかりの街道である。弱法師は河内国の高安通俊の子・俊徳丸である。
↑平野川に架かる俊徳橋
↑俊徳橋から西方を見る
↑俊徳橋
↑俊徳橋から東方を見る
【参考文献】
『生野区ふれあい福祉マップ』(大阪市生野区社会福祉協議会、2023年1月)
『おおさか 上町台地の歴史散歩』(なにわ活性化実行委員会、2014年3月)