丸大食品の創業者

 阪俗研代表の田野登さんと会友の澤田耕作さんと三人で「大阪あそ歩」の下見をした。野田阪神駅の藤棚下から出発し、海老江・鷺洲コースの下見をした。通い慣れたコースだが、一人では道迷いのルートだ。

 福島図書館の福島区歴史研究会コーナーにお邪魔する。蔵書も充実していて、時間が経つのを忘れさせる。

 

 福島区役所(旧ジャスコ)の裏に入る。大阪府立西野田工科高校の校舎が見える。西野田職工学校の時代から伝統を誇る学校だ。しかし、大阪府の高校統廃合計画で西野田工科高校も統合されてしまう。たいへん残念である。この敷地に何が建つのであろうか。マンションであろうか。

f:id:higachanntan:20230930220216j:image大阪府立西野田工科高校

 

 西野田工科高校をさらに歩くと、大開(おおひらき)公園に出る。かつてこの公園の横の道を阪神電車野田阪神駅まで通勤で歩いたなあと思い出に浸る。1978年頃、野田阪神駅前の高速道路下に某政党機関紙の自動販売機があったと記憶している。雑談で「吉野ミュージック劇場」の場所がどこだったかと地図を見ながら話が盛り上がった。
f:id:higachanntan:20230930220220j:image↑大開公園の「松下幸之助創業の地」碑
f:id:higachanntan:20230930220224j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930220204j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930220111j:image↑同上(地図は現在と少し違っている)
f:id:higachanntan:20230930220128j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930220208j:image↑大開の長屋
f:id:higachanntan:20230930220133j:image↑同上

 

 海老江の旧村を歩く。澤田氏所蔵の写真と見比べて、町の変遷の凄まじさを知る。福島区歴史研究会の末廣氏にご挨拶をする。淀川左岸線の工事で中津運河がどう変わったのかをこの目で見る。クレーンが遠目に見える。十三大橋の南にある十三小橋がどうなっているのかが心配だ。 
f:id:higachanntan:20230930220212j:image海老江の民家
f:id:higachanntan:20230930220107j:imageNHK連続テレビ小説「ブギウギ」のポスター。第6回福っくらトークもお忘れなく

 

 海老江から鷺洲に移動する。聖天通り商店街を歩く。田野さんが小学校の知り合いと話すのを見て、地域に歴史が息づいているのを感じる。マンションの林立で流入人口が増えている福島区。地域に昔から住んでいる人がいることで、歴史の継続が保持されている。住んでいるのに、地域について何も知らない「根なし草」的住人の増加は御免蒙りたい。

 

 浦江聖天さんの境内に着いた。住職から、戦後復興に丸大食品社長小森敏之氏の後援がたいへん大きかったと聞く。境内に丸大食品の名や小森敏之氏の母の名も見える。

f:id:higachanntan:20230930220146j:image↑浦江聖天の碑(裏)
f:id:higachanntan:20230930220159j:image↑同上(表)
f:id:higachanntan:20230930220124j:image↑山門(田野さん)
f:id:higachanntan:20230930220137j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930220141j:image↑小森敏之氏の母・かずえさんの名が見える
f:id:higachanntan:20230930220115j:image玉垣
f:id:higachanntan:20230930220120j:image丸大食品との縁は切れていない

 

 

 ここで閑話休題いたしまする。

 NHK連続テレビ小説「ブギウギ」で笠置シズコがモデルになっている。加古川市日本毛織の社宅でロケがされたと聞く。その写真を公開させていただく。
f:id:higachanntan:20230930225930j:image日本毛織の社宅
f:id:higachanntan:20230930225915j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930225948j:image↑同上(印南は、インナミと読む)
f:id:higachanntan:20230930225923j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930225937j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930225934j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930225912j:image↑同上(社宅クラブ)
f:id:higachanntan:20230930225908j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230930225941j:image↑同上


 さて、ここで丸大食品社長小森敏之氏について書き進める。

 福島区は、「かねてつ」(村上食品)や丸大食品の創業の地である。丸大食品株式会社のHP、『疾風有情-小森敏之の生涯-』を参考にして、記述を進める。

 

 次に略年表を誌す。

 1922(大正十一)年3月5日、小森敏之は、香川県高松市で生まれた。

 1954(昭和29)年、小森敏之が福島区上福島北3丁目126番地(現在の福島区福島8丁目17–16)で、魚肉ハム・ソーセージの製造販売を丸大食品工場として創業。

 1958(昭和33)年、旧大阪工場(大阪市大淀区浦江北3丁目50番地→大阪市大淀区大淀5丁目6番地、現在の大阪市北区大淀中5丁目12-43)に本店移転。丸大食品株式会社(資本金900万円)に改組。従業員数は100名足らず。4年間で個人商店から株式会社化した。本社工場の土地は、大地主で有名な吉本太郎左衛門の屋敷跡で、土蔵が4〜5棟も建っていた、敷地は1200坪以上あったが、その半分を買った。

 1961(昭和三十六)年、畜肉ハム・ソーセージの製造販売を開始。

 1965(昭和四十)年5月、旧大阪工場を原料処理工場として残す。

 1965(昭和四十)年、本社を大阪府高槻市緑町21-3に移転。敷地面積1万5000坪。

 1966(昭和四十一)年、大阪市長より大阪市公設市場発展寄与で感謝状を受ける。

 1970(昭和四十五)年、旧大阪工場を高槻工場に吸収廃止。

 1972(昭和四十七)年、大阪・東京両証券取引市場第一部銘柄となる(資本金11億円)。それまでに全国展開をする。

 1976(昭和五十一)年、厚生大臣より食品衛生功労者として表彰される。

 1981(昭和五十六)年、大阪府知事より産業功労者表彰を受ける。相次いで資本金を増資する。11月8日午後4時13分に住友病院で逝去。従五位勲四等旭日章を授与される。11月27日、知恩院で社葬。戒名は「浄光院殿敏誉智心察道大居士」。

 1982(昭和五十七)年11月7日、創業社長「小森敏之之像」胸像除幕式並びに一周忌法要を知恩院で行う。

 

 私の父母と同じ大正人間で親近感がある。敏之氏は中国戦線で兵役に就いていた。生死を分ける戦いであったろう。大阪に復員して、戦後の混乱下に、中央市場仲買人の権利を買う。「小森商店」の看板をあげる。福島区上福島北3丁目に借りた敷地20坪の二階建ての自宅に両親と一緒に住む。

 

 「鯨こそこれからの商材や、行ける」と、小森氏は鯨の加工販売に専念する。中央市場の儲け頭になり、急成長する。しかし、他の業者の羨望と妬みを買うことになる。小森氏には、数々の人との出合いが貴重であった。知恵袋やアドバイザーになる人が周辺にいたのが彼の人徳から来たのであろうか。

 福島区鷺洲1丁目の借家を鯨工場にした。直径1.5メートルもある大釜を二基据えて一日中薪で焚いた。煙と鯨の臭気が周辺に漂った。近所からの苦情があっただろう。鯨肉と鯨油は大きな利潤を産んだ。

 

 『水都大阪の民俗誌』に「彼は親譲りの信仰心が篤く、夢のお告げに観音像が立ち『魚肉でハム、ソーセージをつくれということだ』と悟り、上福島北三丁目に丸大食品工場として創業し」たのである。

 

 最後に、福島聖天了徳院住職の高岡義全師の話で筆を措く。

 (小森氏は月参りを欠かさなかったという)「私が子どもだった頃は、滅多に食べられないおいしいハム、ソーセージをいつも食べさせてくださる人、というのが小森社長に対する印象でした。少し大きくなって宗教の勉強を始めるようになった頃には、『お前ではあのお方にとても太刀打ちできないよ』と院主(父)に言われたほど偉い人でした。反面、京都のお寺があまり豊かでなくて困っていた時など『院主さん、お寺の門の前の橋のたもとで百円とったらよろしい。皆、何ぞええことでもあるのかと、お金を払うて入ってくるようになりますよ』と、寺院経営についてもアドバイスしてくださいましてね(笑)。院主は笑っていましたけれど‥」(『疾風有情-小森敏之の生涯』)

 

【参考文献】

『疾風有情ー小森敏之の生涯』(川瀬勝二郎著、1983年)

丸大食品株式会社のHP(2023.10.01に閲覧)

『水都大阪の民俗誌」(田野登著、2007年)