貞徳舎株式会社は創業138年の歴史を有する。耐火煉瓦やガラス坩堝を製造する百年企業。かつて、貞徳舎特種耐火煉瓦工業所と言っていた。今は鶴見区今津北に本社を移転している。
旧貞徳舎本社は、大阪市東成区新喜多町328番地(現在:大阪市城東区新喜多1丁目5-32)にあった。南に寝屋川、北に馬車道に面していた。新喜多1丁目から2丁目にかけてガラス会社が多くあった。原材料を船で寝屋川を使って運んだ。耐火煉瓦やガラス坩堝の需要もあったのであろう。馬車道をガラス工場から製品を積んだ馬車が行き来をした。
『貞徳舎百年の歩み』(平成3年12月7日発行)によれば、昭和初期の工場風景が載っている。寝屋川を船が行き来しているのが描かれている。馬車道の北側に片町線が走っている。煉瓦で築かれた煙突から黒煙が棚引いている。
↑旧貞徳舎本社跡を鴫野橋から遠望する
↑旧貞徳舎本社跡
↑同上
↑同上
『100年の歩み』から「沿革」を抜き書きしてみる。
明治18(1885)年、大阪市北区天満で渡辺貞助・西村徳兵衛の両名で、耐火煉瓦および硝子用坩堝の製造を始め、両名の名にちなんで貞徳舎と命名する。
明治24(1891)年、北村市松がこれを譲り受け、耐火煉瓦の製造に関与する。
明治26(1893)年1月、工場拡張の為、北区天満より現在地の大阪市城東区新喜多1丁目に移転する。
明治31(1898)年、納品先大阪造幣局より製品の優秀なる試験成績表の下付を受ける。
明治44(1911)年10月、市松死亡により市松長男北村源平が事業を受け継ぐ。尚、源平は当時5歳であったので、その成人まで源平の母み津が経営に当たる。
明治45(1912)年6月、燃料節約、能率増進の炉材として石川県能登に能登断熱工場を新設する。
昭和13(1938)年、香川県で「アンダリューサイト」・「シリマナト」の鉱脈が発見され、それを素材とした材質の耐火物の製造に先鞭をつける。同時期朝鮮(現朝鮮民主主義人民共和国)にて鉱山を開発する。
昭和16(1941)年、太平洋戦争勃発に伴い軍需工場に組み入れられる。尚、当時は主として兵器製造のため、大型電気炉用耐火物(工業用特にアルミ溶解低周波炉用耐火物)の製造が主力となって行く。
昭和23(1948)年、世上労働運動が活発化の下、当工場においても上部組織の指導により労働争議が発生し、約一年に及ぶ工場閉鎖等で工場存亡の危機に立たされる。
昭和24(1949)年、労働争議和解と時を同じく組織も変更し、個人経営から株式会社に改組する。
昭和29(1954)年2月、通産省より日本工業規格表示許可工場に認定される。
昭和40(1965)年、社長北村源平死亡により、妻北村久子が取締役社長に就任する。
平成3(1991)10月、社名を貞徳舎株式会社と改称し、北村公雄が代表取締役社長に就任する。
なぜ貞徳舎にこだわるのか。それは聖賢小学校の同級生に北村小夜さんがいたからだ。北村さんの工場に行ったことがある。小夜さんは北村源平さんの娘だった可能性がある。卒業アルバムに載っている。
↑聖賢小学校の卒業アルバム(ヒガチャンは別のクラスだった)
社長令嬢であった小夜さんは、今、どうされているのだろう。そして、煉瓦塀(刻印入り)と煙突を二度と見られないのだ。2カ月早かったら、煉瓦塀と煙突を見られたのにと言われると残念至極である。
【追伸】
9月2日午後に現場に許可を得て入ることができた。
↑貞徳舎本社の跡
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑煉瓦(製造メーカー不明)
↑同上
↑貞徳舎製の煉瓦
【参考文献】