スカウト製菓のキャラメル

 東宝映画の「見事な娘」(1956年、司葉子主演)を録画して、今もたまに見返している。東京が舞台だが、大阪市が出てくる。「城東区蒲生町○○○番地」を司が通行人に尋ねる。鯰江川(道路になっている)を渡る蒲生橋が舞台だ。蒲生橋はどんな橋か。映画によって具体化された。水管(本管らしい)が横に架かっている。北詰の民家の壁に看板が見える。

f:id:higachanntan:20230926043915j:image↑蒲生橋の欄干

 福本歯科医院、岡村鉄工所、大黒堂、スカウト製菓(ボーイスカウトの絵)が掲示されている。そこを司葉子が北から南詰まで歩く。鯰江川の南岸に地蔵尊の甍が見える。また、ラーメン屋の屋台もある。遠方には煙突が何本も見える。そして、大阪城が東方に、東に位置している。大阪城は西に見えなくてはならない。たぶんマットペイントをしたものと思われる。

 

 90歳の照屋さん(京橋大空襲体験者)に蒲生橋がロケ地になったかと尋ねた。答えはノー。映画の録画を見てもらう。大阪市水道局東野田抽水所の建物の一部、京阪電車京橋駅に降りていく坂道などから蒲生橋でロケ撮影をしたと確認した。

 

 さて、難題はスカウト製菓の位置だ。「スカウトキャラメル」の記憶を友人たちに問い合わせする。グリコ、森永、カバヤの記憶は鮮明だ。しかし、スカウトキャラメルを食べた人は少ない。聖賢小の児童だったヒガチャンは、虫歯も恐れず、しっかり食べた。ポイントを貯めた。貯まったら、スカウト製菓の工場に持って行った。工場の木製の引き戸を開けた。重かった。

 スカウト製菓の場所は、吉田地図の住宅地図で鯰江川(京橋への抜け道)の南岸にあったことがわかる。

 

 スカウト製菓について書かれた著作物はない。国立国会図書館デジタルコレクションで見られた。「大阪市工場一覧」(昭和13年)の217頁にあった。大阪市旭区蒲生町519番地。創業が昭和6年4月。創業者は山脇二郎。城東区が旭区から独立したのが昭和18(1943)年だ。

 現在の住居表示では、大阪市城東区新喜多1丁目4-18になる。

f:id:higachanntan:20230926212822j:image就業規則附賃金規則(鶴身印刷所の提供)

 

 赤ヘルメットを被り、自転車で向かう。小学生時、スカウト製菓に行ったルートがわからなかった。片町線京橋駅の手前に「鶴身印刷所」はあった。片町線の電車から見えていた建物だ。玄関から入った。代表者の鶴身ともこさんがびっくりされて迎えてくれた。要件を伝えるが、さぞ驚かれたことだろう。60年以上前の記憶を披露するのだから。

f:id:higachanntan:20230924200101j:image↑鶴身印刷所
f:id:higachanntan:20230924200030j:image↑同上(東を望む)
f:id:higachanntan:20230924200026j:image↑同上(京橋駅方面を見る)

 

  スカウト製菓のラベル、パッケージなどを保管しているとの回答に驚き、喜び。保存されていることへの感謝が心に溢れてくる。遺品は机の上だけだが、玄関の引き戸が二階にあると仰る。寿屋のラベルは戦前のがたくさんあるらしい。
f:id:higachanntan:20230924200107j:image↑スカウト製菓のパッケージ
f:id:higachanntan:20230924200057j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230924200037j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230924200033j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230924200022j:imageスカウトキャラメルの箱
f:id:higachanntan:20230924200051j:image↑寿屋のラベル(戦前)

 

  二階に上がる。一室のドアを開ける。引き戸が90度回転した状態で残されている。引き戸には把手が付いている。これをヒガチャンが引いて入ったのかもしれない。
f:id:higachanntan:20230924200040j:image↑スカウト製菓の門(引き戸)
f:id:higachanntan:20230924200111j:image二階の廊下
f:id:higachanntan:20230924200104j:image↑二階から
f:id:higachanntan:20230924200044j:image↑スカウト製菓のパッケージ

f:id:higachanntan:20230927193607j:image↑旧土地台帳のコピー
f:id:higachanntan:20230927193557j:image↑同上(早瀬太郎三郎は、新喜多新田開発をした今木屋多兵衛の子孫。早瀬家は、今も阪神間に居住している)
f:id:higachanntan:20230927193602j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230927193616j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230927193611j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230927193553j:image↑同上

f:id:higachanntan:20230927193751j:image↑和紙公図
f:id:higachanntan:20230927193747j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230927193743j:image↑同上

【参考文献】

※鶴身印刷所のブログから転載しました。

 

 昭和21年に初代である鶴身精一(当時63歳)が起業したのが鶴身印刷所の始まりです。

   私(鶴身ともこさん)の曽祖父です。

 ニッカウヰスキーさまのラベルをはじめ、お菓子会社や香料会社の印刷をしていました。
 その後、精一の息子である小次郎(私の祖父)が、二代目として会社を継ぎました。小次郎はもともと航空会社に勤務しており、精一が鶴身印刷所を立ち上げたのと同時に航空会社を辞め、精一と共に歩んできました。


 そうして、2015年まで印刷業を営んでいたのですが、その年の夏に3代目である父が体調を崩したことから、急遽、私が継ぐことになりました。

 当時、私には印刷業の知識もなく、父を介護しながら経営することは非常に難しいと感じたため、年末に印刷業を廃業にしました。


 今、鶴身印刷所として運営している建物は当時「第一工場」と呼ばれていた建物です。もう一つ「第二工場」という建物が、印刷所から200m先のあたりにあったのですが、そこも手放すことを決めました。

f:id:higachanntan:20230926043617j:image↑鶴身印刷所第二工場の跡

 しかし、継いでからずっと、この会社と第一工場をどうしたら良いか、そのことを考えつつも、答えが出ない日々を過ごしていたところ、2016年に入って、知人の方から「第二工場を手放す前に、アートイベントをしたいのだけれど」というお話がありました。


 この体験は私にとって2つことをもたらしてくれました。

 1つは「実家である印刷工場」という見え方とは違う見方がある、ということ。

当時の印刷工場はいかにも「工場」な場所だったため、私は歴史的・建物的な価値を見出せませんでした。

しかし、このイベントがあったことで、印刷やものづくり、人の歴史というものが、誰かにとっては「とてもすばらしいもの」と思える瞬間があるのだと感じました。

 

【鶴身印刷所とは】
 鶴身印刷所は、大阪の京橋駅から歩いて5分のところにある、文化複合施設である。ざっくり言うと、ものづくりをされる方々向けの貸室・貸店舗業をしつつ、講座や古道具販売、貸台所(貸しキッチン)なども営んでいる。

 

【鶴身印刷所の成り立ち】

 建物は木造の2階建て。固定資産台帳を遡ると、昭和14年(1940年)には建っていたらしい。小学校の講堂だったという逸話もあるが、そこは定かではない。

 戦前から建っていたこの建物は、とあるご縁で私の曽祖父「鶴身精一」が取得し、印刷業を始めることになった。

 そして、祖父、父を経て、私が四代目として継ぎ、リノベーションを終え、前述した「文化複合施設」として始まったのが2018年の4月である。

 

【創業者・精一のこと】
 精一は、10代の頃に香川から単身大阪に出てきて、谷町にある印刷会社に奉公しつつ、印刷職人としての研鑽を積んだ。印刷は石版印刷である。(石版印刷はその後、現在のオフセット印刷につながる。石版印刷については→「石版印刷ってなに?そもそもオフセットってなに?」)

 当時、「寿屋」(現サントリー社)との取引があったその印刷会社で、精一は職人という作り手の立場だけでなく、対外的な折衝もしていたと聞く。
(余談だが、開高健氏の小説「やってみなはれ みとくんなはれ」という、サントリー創業者の鳥居信治郎氏を主人公とした話の中に、精一は赤玉ポートワインのポスター印刷を受ける印刷会社の一人として登場する。ちょっと驚きである。詳しくは→「精一とパナマ帽のおはなし」)

 その「寿屋」でウヰスキーの研究・製造をしていたのが、現ニッカウヰスキー創始者である「マッサン」こと竹鶴正孝氏である。

 竹鶴氏はウヰスキーだけでなく、ボトル、ラベル、キャップなどの資材面にも関わっていたため、ご自身が独立されたのちも、引き続き印刷の依頼をして頂けたとのこと。
(竹鶴氏はウヰスキーだけでなく、それを魅力的に飾る瓶やラベル、キャップまでこだわりを持って関わっていらしたそうである)

f:id:higachanntan:20230924213331j:image↑寿屋のラベル

 さて、時は第二次世界大戦。精一が60代の頃。
 大阪城の近くには軍事工場(砲兵工廠)があり、終戦の前日、そのあたりは大変大きな空爆があった。精一が勤めていた谷町の印刷会社も、その空爆がもとで、全焼してしまう。
(ちなみに、鶴身印刷所の最寄り駅である京橋駅も1t爆弾が被弾し、多くの死者が出ていて、現在も南出口には慰霊碑がある。印刷所は運良く空爆の影響から逃れている)

 終戦後、谷町の印刷会社のオーナーは「工場はやめる」と決めたそうで、すると、困ったのが当時の得意先の方々である。

「鶴身さん、なんとかしてくれへんか」

とはいえ、精一も家は焼けて、独立する資金もない。出征した長男を亡くし、同時期に病気で娘も亡くしている。私が曾孫だからとかそういうのは置いておいて、単純にそういう状況で「独立します」と立ち上がるのは、大変なことだと思う。そんな中、得意先の方から声をかけてもらったという。

「鶴身さん、うちの工場を使ったらええ」

 お菓子のグリコ社から独立して「スカウト製菓」というお菓子会社を営んでいた方が持っていた建物。そこを明け渡すので、開業し、印刷業を始めたらいいというのだ。そしてその方は精一に印鑑と通帳を渡し、こう言ったという。

「好きに使いなはれ」

(ドラマか、と思った。そして、私はこの話を曾祖父の娘(祖父の妹)から聞き、精一が独立心で起業したのではなく周囲の人のために起業したことを知った。このことは、リノベーションをする上でとても大きなことだった)

 こうして、戦後すぐ、精一はスカウト製菓社の工場=現在の印刷所にて開業し、1階を工場、2階を住居として一家で移り住み、住み込みの従業員を雇って印刷会社を始めることとなった。