叔父とシベリア抑留

 母方の叔父(長男)は太平洋戦争中に徴兵された。そして、昭和20年に旧満州国牡丹江で旧ソ連軍によってシベリア抑留された。抑留中、ロシア語でソ連軍人と仲良くなったりした。しかし、結核で二度も手術を受け、戦後、日本に帰ってきた。結婚して娘も生まれた。健康に恵まれずに早逝してしまった。

 

 以上は母から聞いた話だ。その母もいない。戦争体験を聴こうとしても聴けない。 叔父の軍歴を知りたい。それには「兵籍簿」を手に入れることだ。大阪府庁(恩給担当)に事情を話した。叔父の本籍が東京都であったので、東京都福祉保健局(恩給担当)の連絡先を教えてくれた。

 

 東京都福祉保健局に電話した。陸軍兵の兵籍簿は各都道府県が問い合わせ先になるそうだ。海軍ならば、厚生労働省が問い合わせ先になると教えてくれた。
 しかし、 叔父の場合、旧ソ連軍が兵籍簿を没収してしまったので兵籍簿がないのだ。帰国時(舞鶴港)に軍歴を自己申告したものが残っているという。

 

 鶴首して東京都福祉保健局からの便りを待った。その「軍歴確認書」が下の二枚である。

f:id:higachanntan:20230820125224j:image↑軍歴確認書
f:id:higachanntan:20230820125228j:image↑同上

 

 軍隊用語で書かれていて私には不明の部分が多い。防衛省防衛研究所(ウクライナ戦争以来、マスコミに取り上げられている研究機関)に相談した。防衛研究所戦史研究センターの史料閲覧室相談係からの回答が来た。

f:id:higachanntan:20230822230906j:image↑「軍歴について(回答)」

f:id:higachanntan:20230822230824j:image↑同上

f:id:higachanntan:20230822230820j:image↑同上

以下が回答である。

①独立工兵第25連隊補充兵について

 部隊が動員されて出動すると、原則として原駐屯地に留守部隊が編成され、出動部隊に対する人馬や軍需品の補充を担当します。このうち人員の補充や教育を担当する部隊が補充隊です。徴集あるいは召集された兵士は、まず補充隊に入隊し、充員を必要とする部隊に配属されます。

 独立工兵第25連隊補充隊(通称号:東部第85部隊)の終戦時の所在地は、千葉県国府台です。補充隊に関連する史料はなく、その他は不明です。

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②陸軍技術二等兵について

 陸軍技術二等兵は、陸軍技術部の将校・下士官・兵(兵長上等兵一等兵二等兵)のうち最下級の階級です。技術部は工兵、砲兵などの兵科出身者で構成されますが、工兵出身者は戦場における技術兵として、築城・交通・通信・架橋・坑道・爆破・測量等の技術を専門とする作業に従事します。

 

③・④昭和19年、内地港出帆の内地港は大阪港か。朝鮮上陸の港はどこか。

 史料がなく、分かりません。

 

⑤電信第18連隊の役割について

 昭和18年10月30日、興安省免渡河より新駐屯地である竜(龍)江省土爾池哈に移駐。連隊は、本部及び3個中隊(第1中隊・第3中隊・第4中隊)と1個無線中隊(第2中隊)並びに材料廠より編成され、満州里から阿爾山方面の通信業務及び警備を担当します。

 

⑥龍(竜)江省土爾池哈(トルチハ)について

 龍(竜)江省は、昭和9年末に旧黒竜江省龍江道の地域に旧奉天省洮昌道の北半分を併せて誕生した州のようです。

 

⑦第19野戦兵器廠に転属した意味について

 第19野戦兵器廠(通称号:遠征第2636部隊)は、海拉爾(ハイラル)付近において、同地付近所在の各部隊へ兵器、弾薬等の補給業務に従事しています。転属した理由は、史料がなく分かりません。

 ただし、①「第44軍直轄 第19野戦兵器廠」/「部隊原簿 第44軍直轄部隊」(当館所蔵)によれば、昭和19年12月5日に独立工兵第25連隊より65名の者が第19野戦兵器廠に転入していることから、大西善之助様も、同様の経緯により、独立工兵第25連隊補充隊より電信第18連隊を経由して第19野戦兵器廠に配属になったのではないかと推測いたします。

 

⑧陸軍技術一等兵(昭和20年5月1日付)から陸軍技術上等兵(昭和20年8月1日)への栄進について

 一等兵から上等兵に進級するには最低6カ月の服務期間が必要ですが、抜群の功績があり、その行為が軍人の亀鑑となる場合は進級させることができました。

 

武装解除後の行動について

 1)吉林省の大学名について

 吉林市には師道大学があり、そこが邦人の捕虜収容所にもなったようです。大西善之助様が、この大学に集められたかどうか確認できませんが、情報提供いたします。

 2)大学で「ソ」軍に依り某中尉以下1500名に編入されたことについて

  ①「第44軍直轄 第19野戦兵器廠」記載の各隊長(中尉)が考えられますが、某中尉がどなたかは分

  かりません。

 3)列車にて黒河経由乗船について

  松花江と考えます。

 4)チタ205収容所及びチタ24地区18分所・同6分所について

 チタ205収容所及びチタ24地区18分所・同6分所に関連する史料はありません。なお、シベリアの収容所については、『戦後強制抑留史(第2巻)』(中央公論事業出版、2005年)に詳述されています。

 5)作業中の発熱について

 個人の情報に係る史料がなく、詳細不明です。なおシベリアの過酷な自然環境や劣悪な収容所の実態など

 は、『戦後強制抑留史(第2巻)』をご覧ください。

 6)チタ州ペトロウスク病院及びヒローク病院について

 史料がなく、詳細不明です。

 7)舞鶴上陸と復員について

 舞鶴上陸は、その言葉どおり、舞鶴の地(港)に上陸したことを意味します。復員は動員の対義語で、戦時の体制にある軍隊を平時の体制に復し、兵員の召集を解くこと、また召集を解かれた兵士が帰郷することを意味します。

f:id:higachanntan:20230823004731j:image↑第四四軍直轄 部隊名第一九野戦兵器廠(通称名:遠征ニ六三六)

f:id:higachanntan:20230823005342j:image↑同上


f:id:higachanntan:20230823004707j:image吉林省概況(昭和27年6月、外務省アジア局第5課)
f:id:higachanntan:20230823004703j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230823004723j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230823004659j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230823004727j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230823004715j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230823004711j:image↑同上(吉林駅周辺の地図)

 

 母方の叔父は戦後、病弱で「シベリア帰り」で白眼視されていた。何の職業かは知らない。戦後、叔父に生き甲斐があったのだろうか。帰国できずに彼の地で亡くなった人々のことを想うと胸が熱くなる。

 中学校の修学旅行(東京、箱根、伊東、熱海)で千駄ヶ谷のホテルで面会した記憶がある。しかし、顔を覚えていない。影の薄かった叔父のシベリア抑留に近づくことができて、私は荷を下ろせたように感じている。

 

 その後、京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」の『引揚船 舞鶴の記録』に「舞鶴入港の引揚船一覧表」が載っているのを見つけた。

 それによると、昭和23年9月12日舞鶴市に上陸した、ナホトカから入港した船は、高砂丸(1500人)だった。その中に善之助叔父さんもいたのだ。

 

【参考文献】

防衛省防衛研究所戦史研究センター史料閲覧室相談係から提供された、史料の写真は「国立公文書館 アジア歴史資料センター」の資料を利用しています。