榎並の歴史(その2)

地元の古老にお話を聴いた。

おりえを忠助が殺した現場を案内していただいた。また、おりえの墓場にも赴いた。整理されて、おりえの墓は不明である。なぜ榎並のこの事件を調べるのか。おどろおどろしい殺人事件も歴史の一コマであるからだ。おりえも忠助も榎並に生きていた。「野江の夜嵐」という覗きからくりにも出てくる大事件だったのだ。『上方』44号復刻版(1970年刊)を参照されたい。

朝日新聞(東京)1920(大正9)年12月7日の朝刊からおりえ殺人事件の記事が掲載されている。「首無女の死体 四肢悉く切断 大阪の怪犯罪」のベタ記事である。そして、記事は大阪版に載り、号外も出る。事件が全国に知られるようになる。1922(大正11)年6月4日の「佐藤忠助 死刑執行 大阪の首無事件」で事件は終結する。

 

 

 

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*1:ここに脚注を書きます