野江橋がどこにあったか。知りたくなって、市バス桜小橋停留所から京街道を辿ってみた。
今はなき桜小橋は榎並川に架かっていた。旧流路を北上した。
榎並川の旧流路
近くにある質屋の蔵
京街道を北上する。都島中通を歩く。
アーケードが続く京街道
昭和の匂いがただよう町並み
京街道に面する建物
京街道の道標
榎並川(南を見る)
榎並川(北を見る)
京街道
榎並地蔵
榎並地蔵
榎並川を東に渡ると城東区に入る(レンガ道)
購買生協の前が京街道。少し北に行って、野江橋を北東に渡る。都島本通に入って、野江内代駅になる。
京街道がこの先から消える
左端が京街道
購買生協の前が京街道
ここに野江橋が架かっていた(手前から左へ榎並川が流れる)
榎並川は大阪拘置所あたりから野江橋、蒲生桜小橋、蒲生橋と流れ、鯰江川に流入していた
榎並川に架かっていた野江橋(左右に架かっていた)
野江橋から京街道を見る
都島本通から榎並川を見る
都島区の内代を歩く。かつての内代の町並みが変わっている。『野江と榎並』に付いている西田勇氏作成の地図と比べて大きく変化している。城北筋が通ったのが大きい。
野江内代の交差点
左端にりそな銀行(大和銀行)
都市計画道路「豊里矢田線」は全通していない(完成まで何年かかるか)
野江水神社の参道が見える
榎並小学校
地域の旧家の蔵
内代の町並みを歩いた。80代の古老から内代の話を聞くことができた。
雲観寺は城北筋にあった。都市計画道路に掛かって、現在地に移転した。
夜泣地蔵尊
その由来が書かれている
榎並橋の親柱も寺の移転と同時に移った。
榎並川は都島本通を超えて、児童公園を斜めに流れていた。かつて清流であった川もどぶ川になり、ついに昭和40(1965)年から埋め立てが始まった。九ケ井路ともいう。昭和10年代は京阪沿線で一番の蚊の名所と言われた。蚊帳を吊っても、人と共に入り込む蚊が何十匹もいた思い出を大森氏は書いている。
地域の古老によれば、40年間住んでいて地域の物知りらしい。近くに90歳の方がいるそうだ。長生きされることを祈っている。
野江内代の交差点
児童公園
児童公園が榎並川の跡
榎並川は、大川近くの製紙会社や染工場からの廃液を受け入れて南東に流れていたようである。都島本通を斜めに横切り、野江橋の下から南下する。蒲生桜小橋からガラス工場の前を流れ、大阪市建設局東野田注水所を経て蒲生橋の南で鯰江川に流れ込んでいた。
猛暑で、野江内代から北西に続く榎並川の流路の調査は終わっていない。後日、続きの報告をするつもりである。
【参考文献】『野江と榎並』大森久治著