水をたっぷり持った。準備万端。城東区役所を出発して、野江内代に向かった。榎並会館(昭和10年築)をまず撮影した。そして、野江内代駅に近い旧榎並川跡の児童公園がスタートラインだ。
旧鐘淵紡績株式会社東部淀川工場(現ベルファ)や大阪拘置所方面に行くのに早道ではないかと思う。児童公園が続くが、狭いので注意が必要だ。
内代児童遊園(前が都島本通)
内代児童小遊園
地蔵尊
都島北通二丁目東児童遊園
都島中央商店街
榎並川第三児童遊園
民家で流路が消失している
また流路が現れる
ここにも地蔵尊
榎並川第二児童遊園
榎並川第一児童遊園
マルニコーポ都島第三の前を流れる榎並川
細くなる流路
市電の道(大阪駅前〜守口車庫)で児童公園が途切れる。
ここだけタイル舗装されている
向こうに榎並川の跡が見える
主要地方道赤川天王寺線(市電守口車庫⇄大阪駅前)
友淵町二丁目
都島北通一丁目を見る
友淵ちびっ子広場
左に友淵墓地がある
十条製紙の工場跡(今はセンチュリーシティ都島マンション)
友淵二丁目の地図
左の建物は高一会館(町会会館)
マルニコーポとは何だ。「マルニ」とは貨物取扱駅にあった会社か。○の中に二を入れたマークの会社だ。それと関連があるのだろうか。
1949(昭和24)年に日本国有鉄道の小荷物扱所を運営する「大阪鉄道荷物株式会社」として発足。1987(昭和62)年国鉄分割民営化で、西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)と、そのグループ会社の物流部門を支える会社として再出発した。(株式会社ジェイアール西日本マルニックスのHPを参照)。マルニコーポについては以後の研究課題にしたい。
昭和29年の地図(「大阪市区分詳細図」和楽路屋)を見ると、友淵墓地あたりまで榎並川の流路が描かれてある。善源寺町二丁目(旧善源寺町)には十条製紙都島工場が存在した。また友淵町一丁目(旧友淵町)には広大な鐘淵紡績株式会社東部淀川工場があった。大阪拘置所は、1959(昭和34)年の吉田地図の「大阪市全商工住宅案内図帳」に存在する。
榎並川の流路をたどる旅の報告をこれで終わる。『方丈記』にある「行く川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」ではないが、悪水を集めて鯰江川に注いだ榎並川には、庶民の生活を支える包容力があったのでないか。榎並川の旧流路には直径2メートルの箱型の下水管が埋設されている。地下で庶民の生活を支える下水管に思いを致そうではないか。
【参考文献】
『榎並と野江の歴史』大森久治
『東成郡誌』上巻