日本軍宣撫官

 戦前・戦中の大日本帝国は「神国」「皇国」と呼ばれた。敗戦後に産まれたヒガチャンには縁の薄い単語であった。

 しかし、「波多野鹿之助」(これ以降、彼と呼ぶ)という人物によって時代を遡っていく。彼は同志社大学教授で、文学部の「漢文講読」の講義を持っていた。恩義のある先生であった。彼が講義中に言ったことが脳裏に残っている。「満州で匪賊と闘った」というフレーズが私を戦前・戦中に誘ってくれる。

 「宣撫」とは、「占領地で、占領政策の目的・方法などを知らせて、人心を安定させること」(『デジタル大辞泉小学館刊)とある。「宣撫官」は軍属になる。

 

 昭和44(1969)年に入学して、「漢文講読」の先生が波多野鹿之助教授だった。京都市北区紫野今宮町にお住まいがあった。在学中、何度かお宅にお邪魔した。

 卒業後、先生との交際は途絶えていた。後期高齢者になった昨今、彼の記憶が脳裏に蘇った。青江舜二郎著の『大日本軍宣撫官-ある青春の記録-』(芙蓉書房刊、1970年)にある「宣撫班員名簿」に波多野鹿之助の名があった。京都に本籍があり、所属部隊名が「本部」とある。

 

 防衛省防衛研究所戦史研究センターに問い合わせた。次がその回答である。

 昭和13(1938)年3月7日に「第一回 内地宣撫官採用試験」に合格した。昭和15(1940)年3月に宣撫官として、多田部隊(部隊長が多田中将)本部に配属された。多田部隊は北支方面をカバーしていた。北支宣撫官は軍属であった。

 

 「宣撫班略史」(『大日本宣撫官』青江舜二郎著)によると、「昭和12(1937)年7月7日事変勃発以来此処に四年、軍宣撫班の発足は天津軍司令部八木沼班長を招きし7月21日を以て始る」とある。

 

 彼の人となりは、『足跡あれこれ』(蔵原真一著、1986年)に書かれている。京都市教員養成所出身で、小学校教員から人生を始める。「全くの奇人色々な健康法を試み、宿泊していた大徳寺の大仙院から西式健康法の畳大のベニヤ板を宿直のときは往復背負ってきた」「よく勉強し中等教員、高等教員の資格をとり戦時中北京の大学の先生になり、終戦後は同志社大学の教授になり、現在も健在、同志社大学の名誉教授」であった。

 『京都府学事関係職員録』(京都府教育会刊、昭和6年4月)によると、「京都府第四聯合 朱雀第二尋常高等小学校の訓導」に波多野鹿之助の名が見える。それまで紫野大徳寺町大仙院から学校に通勤していたみたいだ。

 昭和7(1932)年12月の官報に載っている。彼は「第五十七回高等学校・中等学校・高等女学校教員検定本試験合格者」に名が載っている。

 教員人生が変わることになる。昭和8(1933)年から昭和13(1938)年の期間に彼に何があったのだろうか。

 

 昭和18(1943)年に北京外語教授に就任した。昭和21(1946)年同志社外事専門学校教授となり、昭和30(1953)年に同志社大学文学部に転部した。中国語や国語学を担任した。

 

 1969(昭和44)年から波多野鹿之助先生とのつながりが出てくる。入学試験の発表で私の氏名を確認した。父の知人(伊藤銀証券社員)が波多野先生を紹介してくれた。一風変わった先生であった。大陸的でなんでも受け入れる大きな人であった。

 ここまでが波多野先生について分かった調査結果である。さらに分かったことがあれば、ブログに掲載する。