関ヶ原の戦いin大阪

 最近、梅田の書店界に大きな変動が起きている。

 

 まず、清風堂書店(大阪市北区曽根崎2-11-16)が、出版業を続けるが、書店業から撤退することだ。テナントに入る大阪日興ビルの再開発のためだ。教育書でたいへんお世話になった。一人前の教師になりたくて、足を運んだ。君和田和一さんの本を買って読んだりした。部落問題の雑誌(「部落」「部落解放」など)を買って、勉強したりした。週に一度、店頭を覗かないと教育について同僚との話についていけないと思ったりした。

f:id:higachanntan:20250316141853j:imageホワイティうめだ(今は清風堂書店の看板はない。2025年6月9日に確認)

 

 次いで、旭屋書店紀伊國屋書店の子会社になったのが衝撃的だ。なぜ衝撃的なのか。

 ヒガチャンの青春時代と重なるからだ。

 昭和47(1972)年から昭和48(1973)年の一年間、旭屋書店本店(曽根崎警察署の南にあった)3階の営業部でアルバイトをしていた。3階は文庫・新書で、同じ階に喫茶店もあった。紀伊國屋書店梅田店はワンフロアなのに比べて、旭屋書店本店には1階から6階の多層階店舗のハンディがあった。7階は事務所だった。当時の営業部長は海地信(うみじ まこと)さん。「回転率を深追いせず、(中略)旭屋=専門書のイメージを築いた」と、紀伊國屋書店岡山店の高木氏が書いている。(『書店の店頭から-本屋はわたしの学校だった-』1985年、海地信著、編集工房ノア刊)

 

  昭和44(1969)年に旭屋書店紀伊國屋書店大阪駅を挟んで「東西対決」をした。迎え撃つのは関西の旭屋書店。現在のヒルトン大阪にあったバラック造りの本店(50〜60坪)を大阪駅前店にして、曽根崎警察署南にビルを新築したのだ。紀伊國屋書店旭屋書店も600坪の大型店。旭屋書店は、住宅建築専門会社に依頼し、一年後にビルは完成した。

 紀伊國屋書店は、店内のレイアウト、書架の設計制作を前川國男建築事務所に全て任せた。「新店開設に当っての両社の陣容の余りの隔たりに」海地は愚痴った。友人は「早嶋社長が数億円を出して、君に実験させてくれる」のだよと元気づけてくれた。

 

 旭屋書店の創業者は早嶋喜一さん。旭屋書店産経新聞は深い仲であった。産経新聞(戦前)の初代社長をしていた早嶋氏は戦後、公職追放された。定価販売の本屋がもうかるということで本屋を始めた。昭和21(1946)6月。人通りが多いからと大阪駅前の闇市の跡(大阪市北区梅田1丁目6-8)に本店を開業した。支店には桜橋店、道頓堀店。ミナミの中座横に道頓堀店があった。雑誌『平凡』が本店で売れなくても道頓堀店では一日に100冊も売れた。(参考文献:日本出版学会関西部会「書店人生-出版流通を考える」発表者:海地信、2005年7月25日)

  昭和44(1969)年11月、御堂筋阪急前に本店ビル竣工、開店した。平成23(2011)年12月31日、本店ビルが閉店。平成31(2019)年4月、株式会社TSUTAYAの子会社になる。そして、令和6(2024)年12月に紀伊國屋書店のグループ会社になる。

f:id:higachanntan:20250316152051j:image↑今も残る旭屋書店東梅田地下街店(昭和45年3月開店)

 

   アルバイト店員のヒガチャンにも紀伊國屋書店に対抗心があった。

 昭和48年の7月ころだった。上司の隅山課長から声をかけられた。「正社員にならないか」と。大阪府教員採用試験の結果待ちだった。8月末に淀川区の中学校の常勤講師の口がかかっていたのだ。丁寧にお断りをした。冷静だが、情熱を秘めていた課長で、正社員になろうかとも迷ったりした。早嶋一族の同族会社とわかっていて、出世の見込みもないかなと思ってもいた。

 営業部の仕事は、レジの精算、お客さんとの応対、本の問い合わせ、本の包装などだ。ヒモで本を包装する仕方もここで学んだ。女性店員が多い職場。大町さんや杉村さんから本屋のことを教わった。

 海地信さんともっと話してみたかった。たぶんウマがあったかもしれない。

 本屋はヒガチャンの学校でもあったのだ。