戦時中の寺院への国家介入

 先日、オンラインでイベントに参加した。龍谷大学図書館主催で「戦争体験と朗読」がオンラインとリアルで開催された。
f:id:higachanntan:20251123173149j:image↑戦後80年企画 対談と朗読「戦争記録を伝える」のチラシ

 前進座俳優の浜名美貴さんの朗読もたいへん感動的であった。

 龍谷大学名誉教授お二人の対談も初めて聞く知見に興味深かった。特に赤松徹眞名誉教授(元学長)のお話に興味・関心が湧いた。

 龍谷山本願寺(西本願寺)の御影堂(ごえいどう)には、今は中央に阿弥陀様が祀られている。右に親鸞聖人の御像が、左に聖徳太子像がそれぞれ祀られている。右席が仏教では上位であるという。

 1939(昭和14)年に発布の「聖徳太子奉安様式」を定めた達示」で別院や寺院の内陣に安置されている「聖徳太子御影」の安置場所についてそれまでは、向かって左余間に安置していたものを、聖徳太子が皇室につらなるものとして“上座”である右余間への変更を示した。(『本願寺新聞』2004年6月1日号)

 

ネットの「真宗の本棚」(2025年11月29日に閲覧)に「余間」について解説がされている。それを長くなるが引用する。

 余間とは、「寺院の本堂において、本尊を安置する空間を内陣という。内陣を中心とし、その左右に余間、手前に外陣(げじん)、後方に後堂(うしろどう)が配置される。

 向かって右の余間を「左余間」、向かって左の余間を「右余間」という。以前は左右の呼称が逆であったが、2013年4月8日に現在の呼称へと変更され「本尊から見て左・右」となった。なお、左余間の方が右余間よりも上座にあたる。

 左右に掲げる御影(肖像)については変更されてきた歴史がある。かつては左余間に七高僧(親鸞が真実の教えを伝えた高僧として讃えた七人の僧侶たち。インド・中国・日本の上人たち。日本では源信僧都法然上人)、右余間に聖徳太子の影像を掲げていた。七高僧が上座、聖徳太子が下座であった。

 しかし、1939(昭和14)年9月16日、皇族の聖徳太子が外国人を含む七高僧の影像よりも下座になることは許されないという理由から、聖徳太子を上座、七高僧を下座に置くようにとの達示(命令)が執行長(本多恵隆)によって末寺一般に出された(甲達22号)。

 2004(平成16)年5月24日の「宗告第八号」によると、当時の総局は「遅くとも1948年4月にはこの達示が失効している」との見解を示した。「宗門が1931(昭和6) 年から1945(昭和20)年にいたるまでの15年にわたる先の戦争に関して発布した、消息などは、今後これを依用しない」「『聖徳太子奉安様式』制定にかかる達示及び『聖教の拝読並びに引用の心得』」通達にかかる総局の対応を明らかにした。1931(昭和6)年の満州事変に始まる15年戦争から1945(昭和20)年の敗戦に至るまでの軍国主義体制によって、宗教(仏教・キリスト教・民間神道)が国家に屈服され、追従する道である。

 

 戦争中には御影(親鸞聖人肖像と聖徳太子肖像)の位置が左右逆転していたのだ。そのきっかけは、1937(昭和12)年に発行された文部省発行の『國體の本義』である。その復刻版が2015年に呉PASS出版から発行されている。

 1941(昭和16)年には『國體と神道』が発行され、文部省発行のパンフレットの解説がされている。1937年から1941年にかけて翼賛的な出版物が次々と出回った。

 

 2025年11月22日、父方の義伯母の法要のため一心寺に参拝した。善男善女で本堂は溢れていた。寺の職員に聞くと、午後三時以降四時までが参拝しやすいそうだ。順番が来る待つ間、堂内を見渡した。阿彌陀様が正面に安置されている。右余間に法然聖人の御宸筆、左余間に後白河法皇の御宸筆。

 浄土宗(知恩院)や一心寺について、国家の宗教介入の文献を渉猟中である。

f:id:higachanntan:20251124064635j:image↑一心寺の本堂(右奥に法然聖人の御宸筆)
f:id:higachanntan:20251124064630j:image↑一心寺の本堂(左奥後白河法皇の御宸筆)