(加筆)堺駅ぶらぶら

 南海本線の堺駅に下車した。堺市も太平洋戦争中に米軍の空襲を受けている。

 

 昭和20(1945)年3月から8月にかけて5回の空襲を受けたのだ。3月14日深夜、米軍機が初めて焼夷弾を落とした。錦綾町、香ヶ丘町、浅香山町一帯が猛火に包まれた。

 7月9日夜半から10日未明にかけての第四次空襲が特に激しかった。大阪湾上空から堺市南西部に侵入した米軍機は、約1時間半にわたって油脂爆弾、黄燐性焼夷弾を投下して、市の中心部は焼け野原になった。

 空襲による死者・行方不明者は1860人。全焼家屋は1万8009戸。罹災者は7万2439人にのぼった。全人口の28%が被害を受けた。その密度は全国最高といわれる。(『大阪の戦争遺跡ハンドブック』1987年刊より引用)

 

 旧龍神地区(南海本線堺駅の南側)は戦前、関西屈指のリゾート地だった大浜への玄関口として繁栄し、少女歌劇や遊郭などが並ぶ歓楽街だった。地元有志が、堺大空襲で無縁仏になった犠牲者800余柱を弔う「戦災無縁地蔵尊」を1954年に建立し、慰霊を続けている。

 周辺には軍需工場があり、焼夷弾による炎とゴム工場から噴き上げる黒煙で多くの人が逃げ場を失った。南海本線の龍神駅に停車中の急行電車の乗客は米軍機による機銃掃射で命を落とし、遊郭の女性たちは橋が焼け落ちて逃げ遅れた。阪堺線のガード下に避難した人たちは猛炎と酸欠で重なるようにして亡くなった。土居川の水は熱湯と化し、川面は炎を避けようと飛び込んだ人の遺体で埋まったという。(「読売新聞」2025年8月10日大阪版から引用)

f:id:higachanntan:20260713122008j:image↑黄色に彩色された島で龍神橋でつながるのが旧堺の遊郭跡である。神明は神明神社である(地図アプリ「環濠都市 堺」の【再生古地図】文久年間堺絵図翻刻版から転載。著作権者不明につき、ご存じの方はご連絡ください。)

f:id:higachanntan:20260705171231j:image↑南蛮橋と橋上ポルト之助

f:id:higachanntan:20260705171221j:image↑環濠エリア

 

 幕末に起きた「堺事件」(土佐十一烈士とも言われる)は、慶應4(1868)年2月堺で起きた土佐藩士とフランス水兵との衝突。幕府没落と明治新政府樹立の狭間で起きた出来事。

 堺の町を警護していた土佐藩士と上陸してきたフランス水兵とが出くわした際、言葉が通じないこともあり意思疎通できない中、いざこざとなり、(土佐藩士からの)発砲が起きフランス水兵が殺傷された。

 死者は11人と多数の負傷者が出たことにより外交問題に発展、フランス側から賠償金の支払いと加担した者の処罰を要求してきた。

 最終交渉の結果、賠償金の支払い15万ドルと加担した者の内20人の切腹を妙国寺境内で行うこととなった。

 慶應4(1868)年2月23日、双方立会の下行われたが、余りにも凄惨な光景であったため、11人の切腹を最後にフランス側から中止の申し入れがあった。残った9人は土佐に流刑となったが、明治天皇が11月に即位され、恩赦で無罪放免となり、12番目の橋詰愛平氏は生涯墓守をした。(「元皇室勅願所 廣普山妙國寺の由来」から引用)

 11人の墓は、同じ堺市内の宝珠院に置かれた。その11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかった。(Wikipedia「堺事件」から引用)

 なお、11人は靖國神社に祀られているという。靖國神社に祭神調査を依頼したが、個人名が不明ではわからないと言われた。府立中之島図書館にレファレンスを依頼した。『堺事件橋詰家文書資料集』(高知地域資料保存ネットワーク刊)に11名の氏名が載っていた。5名の氏名を教えていただいた。主犯:箕浦猪之吉、西村左平次、池上弥三吉、大石甚吉、杉本広五郎以下六名。

 

 7月14日に再度、靖國神社(祭神調査課)に電話をした。結論は祭神として祀っていないとの回答であった。しかし、謎が深まっていく。『靖國神社忠魂史』などに当たって、研究を続けたい。「堺事件」については、『実記 百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部編、朋興社刊、昭和62年1月)の72頁〜73頁に詳細が書かれている。

f:id:higachanntan:20260705171319j:image↑「堺事件発生の地」碑(在堺土佐人会 主唱に依りこれを建つ)
f:id:higachanntan:20260705171308j:image↑「幕末の堺旧港」の説明板
f:id:higachanntan:20260705171324j:image↑「明治初年佛人撃攘之地」碑
f:id:higachanntan:20260705171314j:image↑「土佐十一烈士 記念之碑」

f:id:higachanntan:20260705171530j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705171541j:image↑旭橋の橋柱
f:id:higachanntan:20260705171521j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705171536j:image↑「幕末の堺旧港」の説明板の部分

f:id:higachanntan:20260705171853j:image↑同上

 

 文久3(1863)年8月15日に、攘夷派公卿の中山忠光、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎ら40名は、京都・大坂から堺港に到着した。奈良五条代官所に向けて、倒幕の兵を進めたが、上陸直後に起きた「八月十八日の政変」により賊軍となってしまった。 (Wikipedia「天誅組」を参照)。靖國神社の祭神調査係に電話したが、吉村虎太郎は祭神になっていなかった。

f:id:higachanntan:20260713144419j:image↑「天誅組義士上陸蹟」の碑
f:id:higachanntan:20260713144428j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260713144423j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705171837j:image↑天誅組上陸した時、楡の木に船のロープを結えたという

 少し歩くと、「堺のお伊勢さん」という大きな看板が見えてくる。神明神社だ。

f:id:higachanntan:20260705171829j:image↑栄橋町二丁2番地
f:id:higachanntan:20260705171845j:image↑神明神社

f:id:higachanntan:20260705171942j:image↑神明神社の玉垣
f:id:higachanntan:20260705171947j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705171934j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705171952j:image↑神明神社の灯篭
f:id:higachanntan:20260705171928j:image↑同上

f:id:higachanntan:20260705172051j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172045j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172041j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172037j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172055j:image↑同上

f:id:higachanntan:20260705172134j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172307j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172310j:image↑旧堺紡績所跡
f:id:higachanntan:20260705172320j:image↑同上の説明板
f:id:higachanntan:20260705172314j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172326j:image↑与謝野晶子像

f:id:higachanntan:20260705172356j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172412j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172401j:image↑左側に大阪シティバスの停留所(住之江公園行き)がある
f:id:higachanntan:20260705172352j:image↑ふとん太鼓@ホテルアゴーラリージェンシー大阪堺
f:id:higachanntan:20260705172510j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260705172459j:image↑南海本線堺駅

 大和川の改修によって、堺は繁栄の幕が一旦閉まる。しかし、幕末から近現代にかけて、環濠都市堺は激動の時代を生き抜いた。大阪市から大和川を越えると、堺市になる。今まで関心を持たなかったが、与謝野晶子や沢口靖子(府立泉陽高校出身)、大仙古墳などの古墳群を糸口にさらにまち歩きを進めたい。