日本一の「とり鹿」

 前進座公演「さんしょう太夫説経節より-」を国立文楽劇場で観た。前から二列目で鑑賞できた。心労のため、しばし眠ってしまった。K女史も見えていた。原作者のふじたあさやさんに挨拶に行かれた。コープシアターの8月例会で女性が多かった。

 地下鉄千日前線日本橋駅を上ると、交差点の名が日本橋筋一丁目。略すと「日本一」だ。外国人ばかりで、日本人は行かないと思われる。54年前は日本橋筋一丁目には古本屋が多かった。

f:id:higachanntan:20240829222035j:image↑「鳥鹿(か)」の食肉部
f:id:higachanntan:20240829222029j:image↑「とり鹿」本店
f:id:higachanntan:20240829222032j:image↑同上

 料亭部も持つ「とり鹿」だが、堺筋側はカウンター席の入り口か。料亭部は西側にあるのか。屋上にニワトリが鎮座している。店内で食事をしていないが、由来を聴いてみたいものだ。

f:id:higachanntan:20240829222936j:image↑ショーウインドウ
f:id:higachanntan:20240829222930j:image↑価格の安いのもあるのだ
f:id:higachanntan:20240829222928j:image↑ニワトリが見えている
f:id:higachanntan:20240829222933j:image↑旧北陸銀行ビルも解体された

 にほんいちビルの看板に「大彌株式会社」の名が見える。逢坂弥(わたる)の名と関連があるのだろう。明治三(1870)年、千日刑場が廃止された。千日前の発展には、奥田弁次郎、横井勘市、逢坂弥、藤原重助の名が浮かぶ。奥田弁次郎の墓は阿倍野墓地(南霊園)にある。また大きな記念碑もある。

 逢坂弥は、和歌山県出身。明治十五(1882)年ごろ大阪府二等警部で南警察署に勤務していた。寄席の警備にあたるうち興行に興味を抱く。明治十七年、吉本NGKシアターの向かい(千日前金比羅神社の横)に集寄亭(講釈小屋)を開く。木戸銭が5銭で、寄席は大繁盛する。明治二十九年に彌生座をつくる。出演者はほとんど無名であったが、大熱演で、「弥生座ほど安くて面白い小屋はない」と言われた。溝の側(ビッグカメラ南)に集寄亭を新築する。大正十四年に大阪市会議員になる。詳細を聴くために会社に突撃しようと想っている。

 交差点から東に歩く。黒川紀章設計の国立文楽劇場(創立40周年)が見えてくる。旧高津小学校の跡地が劇場になった。14時に開演なので、なんばウオークで買っておいたパンを食事場所で食べる。欧風カレーパン(250円)、とろ〜りクリームカスタードパン(240円)、北海道小倉あんぱん(200円)を味わう。

f:id:higachanntan:20240829224700j:image前進座公演「さんしょう太夫」の上演時間

f:id:higachanntan:20240830234215j:image↑「さんしょう太夫」のチラシ
f:id:higachanntan:20240830234211j:image↑同上

 「さんしょう太夫」は、芸術祭優秀賞(1975年)、斎田喬戯曲賞(1975年)、児童福祉文化賞(1975年)、名古屋演劇ペンクラブ賞(2009年)に輝く伝説の芝居。暗黒時代に光が灯った気持ちになる。

f:id:higachanntan:20240829225807j:image↑国名小劇(にほんいちビル)

  国名小劇はかつて、ミニシアターで海外の名作を上映していた。地下の名画館が閉鎖されて、その後ピンク映画を上映していた。しかし、それも空しく劇場がなくなった。

 

【参考文献】

『大阪人物辞典』(三善貞司編、清文堂刊)

『なにわ難波のかやくめし』(成瀬國晴著、東方出版刊)