中江有里や桐谷健太が学んだ大阪市立豊崎中学校にお邪魔した。目的は旧長柄橋橋脚の弾痕の一部が校庭内にあるからだ。
大阪市電の敷石が再利用されている。生徒に聞くと、明確に市電の敷石と答えた。阪神北大阪線のではないと言った。
↑大阪市立豊崎中学校の玄関
↑道標か(右にしのみや、左いたみ)
↑希望の塔
↑旧大阪市電の敷石
↑同上
↑校庭(16時ころ)
↑同上
教頭先生に案内を乞うた。校庭北側の藤棚の下にあった。長柄橋の橋脚の弾痕を戦争遺産として全面保存を求める運動が旧大阪市教組北大阪支部婦人部(現大阪市教北大阪支部女性部)も加入して起きた。全面保存はできなかったが、一部を豊崎中学校の校庭に保存できた。その後、長柄橋南詰にもできた。中学校の生徒や保護者は知っていようが、広く一般に知られているだろうか。
↑長柄橋の橋脚の弾痕
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
橋脚の弾痕が豊崎中学校に保存されるまでの経過を以下にまとめる。
1945(昭和20)年6月7日に大阪大空襲の焼夷弾攻撃があった。猛火に追われた天神橋周辺の住民の多くは、長柄橋下の河川敷に避難した。B-29が1トン爆弾を落とした。さらに戦闘機が機銃掃射を加えた。約400人の命が奪われたという。
1982(昭和57)年、新しい長柄橋完成にともなって、長柄橋の橋脚に残っていた弾痕も撤去されることになった。戦争の「生き証人」を残そうと「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める会」が結成された。橋脚の保存を求める陳情をしたが、当局は「河川管理の上で問題がある」との理由で取り壊した。
玄関を出て、学校の柵に沿って歩く。そこに常翔学園(大阪工業大学)などの碑があった。ルーツがこことは初めて知った。ソクラテスの「無知の知」の大切さを改めて噛みしめる。
天六に向かって歩く。ここには「シネ5ビル」があった。金券ショップで特別鑑賞券を売っていた。1000円でお釣りが来た。「お日柄もよくご愁傷さま」という邦画を見た覚えがある。「難波金融道-ミナミの帝王-」(山本太郎も出演)を何作も観た。
↑くら寿司の所に「シネ5ビル」があった
↑街灯に「ホクテンザ」の名が残る
↑天六国際モータプール
北区天神橋7丁目6-11に「シネ5ビル」があった。地下1階にユウラク地下劇場、1階にユウラク座、3階にコクサイ劇場、5階にホクテンザ1・2。40〜50歳代に足をよく運んだ。ただコクサイ劇場は閉館していたと記憶する。EVが3階には停止しなかったからだ。
北図書館で調べた。ゼンリン住宅地図によると、2011年まで5座の名が印刷されている。2012年にはシネ5ビルとしか表示されていない。2013年は空き地になっている。そして、2014年にはくら寿司が表示されている。よく観に行った映画館だけに、映画館の変遷に興味が湧く。
↑日本橋一丁目交差点近くの「にほんいちビル」のポストに逢坂弥の会社名があった
↑同上
天六から豊崎中学校、豊崎中学校から天七と歩くだけでもこれだけの収穫があった。大雨警報が出た日だったが、暑さにも負けずにまち歩きを続けよう。
【参考文献】
『大阪の戦争遺跡ガイドブック』(戦争体験を記録する会編・大阪教育文化センター協力、清風堂書店刊)