生玉寺町、夕陽丘町を歩く

 地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅を下車した。太平寺(曹洞宗)、春陽軒(曹洞宗)、青蓮寺(高野山真言宗)の順に参拝した。

 太平寺は「十三まいり」で有名な寺だ。暁鐘成(木村蒹葭堂)が『摂津名所図会大成』で書いている。「(虚空蔵堂は)太平寺にあり。虚空蔵菩薩を安ず。参詣間断なし。別て三月十三日は十三の童子群参して智福を祈る。これを十三詣りといふ」と書く。江戸中期から上方で盛んになった行事である。「知恵貰(もらい)」とも呼ばれ、戦前まで浪花の春を呼ぶ行事でもあった。お寺でパンフレット(「摂州・護国山 太平寺」)をいただける。

f:id:higachanntan:20230417181553j:image生玉寺町の地図
f:id:higachanntan:20230417181550j:image夕陽丘町の地図

f:id:higachanntan:20230417202543j:image太平寺の蔵
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f:id:higachanntan:20230417202550j:image↑大阪大空襲でも焼け残った蔵

 

 

 口縄坂から歩き始める。上町台地を歩く。
f:id:higachanntan:20230417193012j:image↑口縄坂
f:id:higachanntan:20230417193018j:image↑口縄坂の説明板

f:id:higachanntan:20230417193015j:image↑織田作『木の都』より

 

 

 まず、曹洞宗の春陽軒(夕陽丘町)に向かう。前もって電話をしていた。住職が現れて、『百人一首一夕語』で有名な尾崎雅嘉翁の墓まで案内していただいた。1827(文政10)年に73歳で没す。墓碑には「蘿月尾崎君墓」とある。大坂難波村の生まれ。僧契沖に国学を学ぶ。

f:id:higachanntan:20230417194857j:image↑尾崎雅嘉の墓石
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f:id:higachanntan:20230417194900j:image↑同上

 砂岩の墓のせいか劣化したのを修復されている。住職に『なにわ古書肆 鹿田松雲堂 五代のあゆみ』(和泉書院)を見せていただいた。無縁墓であるが、寺の管理が行き届いている。

 尾崎雅嘉の墓石は、春陽軒にあることは『浪花名家墓所集』でわかっていた。しかし、不明になっていて、本堂北側にある崖の竹やぶに埋まっていたらしい。永年墓を探していた古書店主の鹿田静七こと古丼(こたん)が明治25(1892)年に発見した。寺に伝え、この縁で鹿田氏は春陽軒の檀家になったと聞く。

 『大阪人物辞典』(三善貞司編)に尾崎雅嘉について詳細に書かれている。

f:id:higachanntan:20230417202207j:image↑鹿田家の墓石
f:id:higachanntan:20230417202201j:image↑鹿田古丼の墓
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f:id:higachanntan:20230417202204j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230417202211j:image↑同上

 

 

 学園坂の北側にある、高野山真言宗の青蓮寺(生玉寺町)に向かう。二世竹田出雲と中山南枝、岸本水府などの墓碑がある。 

f:id:higachanntan:20230417205145j:image↑案内板
f:id:higachanntan:20230417205148j:image↑青蓮寺
f:id:higachanntan:20230417205219j:image↑青蓮寺の門前

 

 『番傘』の編集兼選者であったた川柳作家の岸本水府。水府は明治25(1892)年、三重県鳥羽に生まれる。明治42年大阪成器商業学校(現大阪学芸高校)を卒業し、大阪貯金局に就職。「関西川柳社」の西田当百に師事する。水府は広告営業マンに転職し、桃谷順天館・福助足袋・寿屋・江崎グリコの宣伝部に属した。昭和21(1946)年、日本学士院特別会員。昭和22(1947)年、大阪府文化賞受賞。昭和40(1965)年、大阪市の城東病院で81歳で亡くなる。「水府」とは愛用した刻みタバコから取った。旧中座の東隣の「今井」前に水府の川柳碑がある。
f:id:higachanntan:20230417205159j:image↑岸本水府の墓碑
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f:id:higachanntan:20230417205212j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230417205226j:image↑同上

 

 竹田出雲の合同墓が寺内にある。二世竹田出雲は江戸中期の浄瑠璃作者で竹本座の座元。宝暦六(1756)年に66歳で没す。宝筐印塔「文明院岑松立顕居士」合同墓。台石「竹田氏」の上に、八基の墓碑。東側二つ目。「義経千本桜」「夏祭浪花鑑」「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」「双蝶々曲輪日記」を作る。元祖と元祖の父も含まれるが、戦災で過去帳が失われているため確認ができないらしい。また、戦前まで竹田出雲奉納の33体の観世音菩薩があった。戦災で焼失した。
f:id:higachanntan:20230417205131j:image↑二世竹田出雲の墓碑
f:id:higachanntan:20230417205242j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230417205246j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230417205135j:image↑オランダ積みの煉瓦塀
f:id:higachanntan:20230417205209j:image↑煉瓦塀
f:id:higachanntan:20230417205229j:image↑竹田出雲の合同墓
f:id:higachanntan:20230417205203j:image↑同上

 

 青蓮寺の参拝を終え、山門を出る時に塀に気づいた。基礎の石は一部修復されているが、戦前のままで残っている。塀は戦後に修復されている。
f:id:higachanntan:20230417205139j:image↑塀
f:id:higachanntan:20230417205206j:image↑案内板
f:id:higachanntan:20230417205239j:image↑青蓮寺内

 

 江戸後期の歌舞伎俳優の中山南枝(なんし)の合同墓もある。画像は失念していて、掲載できない。二世中村富十郎に次ぐ地位に上り、富十郎没後は三都を通じての名人と言われた。1857(安政4)年引退。大坂戎橋の近くで鬢付屋を開業したが、翌年死亡した。「容貌はよくなかったが、風姿よく娘・姫・傾城・奥方・世話女房など(中略)女の情愛を表現する技芸に秀れていた」(『大阪墓碑人物事典』より引用)

 

ご住職に説明をしていただいた。知らないことばかりで恐縮した。またお邪魔して、説法を聞かせていただきたいものだ。
 

 

 

 

【参考文献】

『大阪人物辞典』(三善貞司編)

『大阪墓碑人物事典』(近松譽文)

『なにわ古書肆 鹿田松雲堂 五代のあゆみ』(四元弥寿)

Wikipedia「岸本水府」を閲覧(2023.4.17)

『道頓堀の雨に別れて以来なり−川柳作家・岸本水府とその時代−』(田辺聖子)