横井座は千日前にあった

 劇場「横井座」は横井勘市によって建てられた。

 横井勘市とはいかなる人物か。

 天保十一(1840)年に知多半島の漁村に生まれる。岐阜県生まれとする記述もある(成瀬國晴)。明治七(1874)年、大阪に来る。「かめやまのちょんべはん」売りなどをしたり、道頓堀の小屋の走り使いなどをする。千日前の興行師奥田弁次郎に拾われ、彼の見せ物小屋で働き出す。「爪に灯をともすように」金をためた。金持ちはケチだと大阪では言われるが、彼もご多分に漏れない。

 

 横井座は、明治二十六(1893)年一月に中村儀右衛門(1852〜1921)によって設計・建設が行われていた。三階建2500㎡(750坪)、破風入母屋造、大黒柱は能勢の山奥から切り出したもの、収容人数は二千八百人。四千人まで詰められたので、「四千人劇場」と言われた。工費は五万円かかったらしい。勘市は昼夜現場で工事人を督励した。

f:id:higachanntan:20220304123447j:image旧横井座。現在はなんばオリエンタルホテル千日前になっている(写真の中央部)

 中村儀右衛門が設計・建設した劇場は横井座以外に、道頓堀の弁天座・浪花座・角座、常盤座・電気館、梅田の大阪歌舞伎、天満の天満座・老松座、松島八千代座、堀江演舞場、玉造座などである。儀右衛門は大阪市南区九郎右衛門町二百五十一番屋敷に住所があった。

 

 明治二十九(1896)年三月八日、横井座は柿落としを迎える。満員盛況で入り切らぬほどの観客。自分の夢が実現して、さぞかし嬉しさの絶境であったのだろう。

 敵の多かった勘市は翌日九日午後九時頃、劇場向かいの寿司屋「久富」で、抜き身を引っ提げた五、六人の男に襲われた。「他の席亭と契約した市川福圓を、日本橋四丁目の八尾駒親分の世話で引抜き横井座の柿落としに出演させながら、八尾駒親分を招待しなかった」のが原因と言われている。九日後に五十七歳の人生を終える。

 

 勘市亡き後に遺産相続問題が起きる。本妻母娘と妾(愛人)とが長年法廷で争った。勘市死去の七年後に横井座は全焼する。財産が皆無になった双方は離散してしまう。本妻フサの娘ナミは鹿児島へ酌婦に売られる。

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