大阪拘置所は若松町にあった

 

 大阪拘置所は今は大阪市都島区友淵町にある。安倍首相銃撃事件で被告が入所する拘置所でもある。昭和38(1963)年までは大阪地高裁判所の敷地にあった。大阪控訴院のレンガの建物が有名であっただけに、その北にあった大阪拘置所(北区拘置支所)の存在は私にはなかった。

 大阪地・高裁判所の敷地西北隅にある二つの半球はなぜそこにあるのか。謎であった。

f:id:higachanntan:20240628144549j:image↑ナゾの二つの半球
f:id:higachanntan:20240628144546j:image↑同上

 文献にあたったが、二つの半球についての記述は出てこない。東京の矯正図書館のレファレンスを受ける。『大阪拘置所50年史』のコピーを見ると、大阪市北区若松町8番地の大阪北区拘置支所の写真があった。レンガ塀の高い塀に囲まれていた。初見の写真だ。

 

f:id:higachanntan:20240628143006j:image↑『大阪拘置所50年史』より転載。大阪拘置所の表門(大阪市北区若松町)
f:id:higachanntan:20240628143010j:image↑北区刑務支所の図面

f:id:higachanntan:20240629013434j:image↑大阪拘置所の全景写真

 

 死刑囚・孫斗八について触れておこう。

 その事件は昭和26(1951)年1月17日に起きた。神戸市三ノ宮のガード下(神戸市生田区北長狭通6丁目高架下211号)で洋服商を営んでいた中年夫婦が殺された。全国に指名手配され、1月27日に広島県呉市で孫斗八(25)が逮捕された。

 孫は中年夫婦の店でパイル地のオーバーを犯行以前に買っていた。そして、しばらくして貧窮の孫が洋服店に現れる。この珍客を店主夫婦は熱いぜんざいをふるまう。広島県出身の店主は、同郷のよしみから飲み屋に孫を誘った。タバコ銭にも困っていた孫だった。店主は店の前で孫と別れた。

 1時間後、店の裏口から孫は侵入する。店主の妻が止めようとするのを振り切り、店主が寝ている二階に上がる。階段を下りようとして金槌が目に入る。店主の妻の頭を複数回撲る。二階に上がり、寝ている店主の頭に金槌を振り下ろした。

 洋服を柳行李に詰める。風呂敷包みにも洋服を包む。手提げ金庫の貯金通帳と現金をさらって、三ノ宮駅まで三輪タクシーで逃走した。

 被害金額は5万円くらい。それを孫は10日間で使ってしまった。昭和25年の労働者の平均給与(男性)は1.1万円だった。令和4(2022)年の平均給与は34万円。各自で計算されたい。

 

 『大阪拘置所創立50周年記念誌』(平成4年3月)から戦時中から戦後にかけて大阪拘置所の沿革を引用する。

 「昭和16(1941)年11月、北区刑務支所から大阪拘置所として独立。職員定員103名。収容定員491名。敷地面積2374坪。建物延面積2716坪。

 昭和19(1944)年2月、収容者が激増し、被疑者及び被告人の一部を大阪刑務所へ移送。

 昭和29(1954)年10月、在監者が、大阪地裁に「現行監獄法は憲法違反」との行政訴訟を提起。(ヒガチャン注:この記述は死刑囚の孫斗八が提起した訴訟である)

 昭和30(1955)年2月、大阪高裁控訴棄却・死刑判決。同年12月19日、上告棄却・死刑判決確定。

 昭和31(1956)年4月3日、恩赦出願。

 昭和33(1958)年8月20日、大阪地裁民事3部(平峯隆裁判長)・行政訴訟「文書図画閲読等禁止処分に対する不服事件」勝訴。

 昭和36(1961)年4月7日、死刑執行停止命令。

 昭和37(1962)年3月27日、死刑訴訟1審敗訴。同年4月8日、恩赦の却下告知(昭和32年5月2日付却下)。同年、4月14日に恩赦訴訟提起。

 昭和38(1963)年4月30日、恩赦訴訟の訴訟救助決定。同年、6月1日、行政訴訟弁論。6月12日も同様の弁論が行われた。6月23日、同本人尋問がされた。同年7月17日、大阪拘置所にて死刑執行される」

f:id:higachanntan:20240630062840j:image↑紫陽花(本文と関係ありません)
f:id:higachanntan:20240630062843j:image↑百合(本文と関係ありません)

 昭和38年12月、都島区に刑場が移転しても、レンガの土台がしばらく残っていたという。

 拘置所移転の時に、「裁判長と職員の有志が二つの半球を寄贈したらしい」と龍谷大学法学部石塚伸一教授から聞く。文献には出てこないが、裁判所内の二つの半球は死刑囚孫斗八を悼む碑であったと思いたくなる。なぜ二つの半球なのかも不明である。謎が深まるばかりだ。

 孫は行政訴訟を連発して、監獄行政・死刑制度と闘ったパイオニアだったという見方もある。見栄っ張りで、詐欺罪で刑に服した孫を褒めすぎだとする人もいる。

 

 いずれにしても、司法制度改革で「応報刑から教育刑へ」の流れがあり、刑務所や拘置所などの現場でも「監獄行政」からの脱皮が求められている。あの世の孫斗八にはどう見えているのだろうか。

 

【参考文献】

 『大阪拘置所創立50周年記念誌』(平成4年3月)

    『矯正風土記(下)』(昭和63年10月)

    「山中理司(大阪弁護士会)のHP」を閲覧した。(2024年6月30日)

     『逆うらみの人生〜死刑囚・孫斗八の生涯』(2017年1月、インパクト出版会)