左目の具合が悪く、眼科に行く。かかりつけ医は来月、ラズビニバブ注射を打つことになった。約2万円かかるらしい。
今里でお昼の食事を摂る。安い、うまい、腹が膨れる。三拍子揃っている。スマホの連絡先に入力をした。今里ライナーであべの橋に向かう。
まず、大阪鉄道病院に向かう。鍋井克之のタペストリーの撮影に。案内所の女性に撮影許可をもらう。1962(昭和37)年天王寺民衆駅の中央コンコースの壁面に飾られていた壁画「熊野詣絵巻」だ。
あびこ筋から阿倍野区役所まで歩く。そこでマップをいただく。マップを頼りに、JR美章園駅に向けて歩き出す。工芸高校近くの路地に古民家があった。
この建物もなくなるかもしれない。写真に残しておきたい。
阪和線の高架が見えた。旧阪和線の線路跡が続いている。ガードを潜ると、線路に沿って美章園商店街が続いている。昭和30年代が商店街の繁盛した時代だったと紳士服の店主が語った。
旧阪和線の線路跡
美章園商店街
JR美章園駅
美章園駅の北側に「遭難供養之碑」が建っている。1945年2月14日の米軍の空襲で1トン爆弾が阪和線美章園駅に投下された。鉄筋コンクリートの橋脚を粉砕するとともに、付近の民家20戸余りを破壊して死傷者30余名を出す大被害ををもたらす。当時の駅職員の手で1951(昭和26)年8月24日に供養の碑が建立された。この日の阿倍野区の被害は、全壊20戸、半壊177戸、小破241戸、死者24名、重傷16名であった。
近くには美章園温泉という大きな銭湯があったらしい。銭湯に来る客で賑わっていたらしい。しかし、今はマンションに建て替わっている。
美章園商店街が高架に沿ってずっと続いている。昭和の空気が漂わせながら。
美章園商店街
近鉄河堀口駅まで商店街が続いていた。近鉄のターミナル駅の阿部野橋駅の一つ手前が河堀口駅(こぼれぐちえき)だ。ターミナル駅は栄えているが、一つ手前の駅にはくたびれた、小市民の生活の呼吸が広がっている。国道25号線を渡ると、阿倍野区ではあるが高松小校区になる。旧地名表示では八反田だ。下町になり、生野区に続いている。
近鉄河堀口駅(高架駅)
下がJR阪和線の高架。その上が近鉄線
国道25号線から高松小を望む
国道25号線
八反田地蔵尊
由来を書いた掲示板
八反田地蔵尊
【参考文献】
東京文化財研究所データベース「鍋井克之 日本美術年鑑所載物故者記事」閲覧