戦争がどんどん遠くなる

 叔父(國雄さん)が一昨日に亡くなった。施設に入所して、頭脳ははっきりされていたと聞く。酸素吸入器のお世話になり、老衰で亡くなった。享年は96歳と4か月。長寿だった。

 長男の秀雄、三男の道夫(父)、四男の國雄、五男の勉、長女の千代子。兄弟はいずれも黄泉の世界に行ってしまった。

 彼らの父母は、甚蔵とヤイノ。甚蔵の記憶は全くない。ヤイノは中ニの頃に熊取町の病院で亡くなった。私は葬儀にはなぜか付いていかなかった。精神分裂症(今は統合失調症)を患っていたので、私にも「業病」の血が流れていると恐怖していた。それが葬儀に行かなかった訳と今では思う。

f:id:higachanntan:20230112000409j:image片町線長尾駅前の葬儀場
f:id:higachanntan:20230112000403j:image片町線の列車

 私の父母の墓は今はない。かつて二人で高槻市桧尾川の墓地を持っていた。母は先に亡くなり、父が亡くなった時に墓じまいをした。母の骨は一心寺で骨仏になっている。父は2年後に骨仏になる予定だ。

 

 父は大正十一年二月に生を享けた。大阪市立鯰江第二尋常小学校(現在の聖賢小学校)を卒業後、大阪市立城東高等小学校(現放出中学校)に入学する。北区川崎町の専門学校を卒業した(?)のち、城東区新喜多二丁目にあった岡村鉄工所で働く。サラリーマン生活をスタートさせたのだ。太平洋戦争には従軍していない。その理由は不明である。

 

 戦後(昭和25年)に新喜多4丁目の家を伯父から買う。鯰江公設市場につながる街並みで、商売に向くと思い、家の前に露天の店を出す。父はサラリーマン気質が抜けず、客あしらいの上手い母が商売の前面に立っていたと思われる。リピーターのお客さんが増えて、扱う品数も増え乾物商の看板を掲げた。よく儲かった。冷凍食品や肉まん、鮮魚、ハンバーグと店を広げた。店の奥(居宅)で父や私がラーメンを小分け包装をしていた。 

 店は二人では足らないので、滋賀県稲枝から女性(いっちゃん)を雇って住まわせた。さらに親戚から応援に来てもらったりした。國雄叔父の奥さんも手伝いに来てくれた。母方の花園の親類にも手伝ってもらった。それほど人の波で商売は儲かった。商圏も広がった。仕入れは朝早く父が自転車(ウエルビー号)を漕いで川口町の中央市場まで行っていた。自動車運転免許証は取得しなかった。20年以上、毎日中央市場まで通って、家族四人を養っていたのだ。感謝しても感謝しきれない。ある時、寝屋川に架かる新喜多橋でバランスを失い、積荷が道路に散らばった。家族総出で片付けをした思い出が今も蘇る。

 

 景況も昭和40年代になると、スーパーマーケットの進出が始まる。鯰江商店街のアーケードを作った。商店主たちが頭を寄せてアイデアを絞った。しかし、客足は戻らず。収入は赤字続きになる。そして、昭和55年頃には店のシャッターが降りることになる。収入はアパート(あづま荘)の家賃に頼ることになる。その頃が絶頂期であった。父がよく言っていた。「一千万円の年収になった」と得意げな顔をしていた。

 

 いとこの東野弘明さん(長男)と次男の徹さんには、貴重なお話を伺った。感謝の意を表します。叔父の話を今後まとめてブログで発表したい。

 

【参考文献】

Wikipedia逓信講習所」を閲覧。

②叔父の長男(弘明)さん、二男(徹)さんからの聞き書き

③星翔高校(元浪速工学院)のHPを閲覧。星翔高校の卒業証明書。