雲谷斎の思い出

 私は昭和25(1950)年に東鴫野で生まれた。そして、大阪市城東区新喜多4丁目で育った。その家で父母と弟の四人で住んでいた。就職後も二階の一室を与えられていた。

 

 もともとは平屋建てであった。使いにくい家であった。乾物・鮮魚商をしていたが、よく儲かった。鯰江商店街のアーケードを商店主が金を出し合って作った。しかし、店が主で、住居は従であった。私的空間と商業活動が同じであったため、父母は、私の小学生の頃よく喧嘩した。夫婦喧嘩が凄まじかった。兄弟でどちらの味方に就くかで、心理的に動揺したりした。

 

 当初の間取りは玄関(シャッター)を入ると店になる。土間から畳の間になる。四畳半の広さ。ガラス戸を開けると、縁伝いに便所になる。便所紙(時に新聞紙を代用したか)が隅に重ねられていた。ぽっとん便所で汲み取り人夫が定期的にポンプで汲み取りに来た。金隠しの下を見ると、人間の活動の逞しさが山吹色にうず高く存在していた。小さな庭があったかと思う。台所もあったが、今風のキッチンではなかった。風呂はなく、近くの「曙湯」によく行った。

 

 狭いので、家を父母は二階を増築した。便所を取り込んで、一階は四畳半の間に小さな食堂ができた。家族団らんの間ができた。風呂も作った。五右衛門風呂で、商売で出る木箱が薪になった。風呂を沸かすのが私の役目であった。GEの大型冷蔵庫やウエスティングハウスの乾燥機を父は買った。よく儲かったのだろう。商店街に買い物に来るお客さんの人並みで、向こうが見えないくらい儲かったのだ。毎晩、家族で儲けを勘定した。小銭を重ねて、どれだけ儲かったかを皆で確認していた。小学生でも小銭の山を見れば、一日の儲けがわかった。

 

 食堂の横に便所があるから大変都合が悪かった。

 就職して、ある日に私は思い立った。便所のドアに「雲谷斎」の紙を貼った。「うんこくさい」をもじったものだ。ここが便所ですよと説明している。同時に不浄な所なので、お札代わりに「雲谷斎」を貼ったのかもしれない。

 友人に「雲谷斎」の話をした。家相から見て、問題が起きる凶相であると彼は言った。さもありなん。初詣をしてもえべっさんに願掛けをしても、眼の難病も治らない。古人のように柳谷観音に縋るしかないかなと夢想している。