明治末期から大正初期にかけて、「(東成郡)鯰江村は寝屋川・鯰江川の二つの水運の便に恵まれ、ガラス製品・エナメル製品・綿糸布紡織・電気機器・石鹸・鉄鋳物などの生産地としてしだいに発展に向かう。町制施行後には川北電機製作所をはじめ多くの工場が同地域に進出し、商工関係者で来住する人々も多く人口二万人を超えるに至った。
大阪市の都市再開発が進み、市内道路や市電路線の建設が着々と捗った結果、(略)市内巡航船が大正二年九月に廃止された。(略)大阪市に隣接する城東の一角鯰江の工業地・住宅地としての再開発の動きが、同地域と大阪市街との間に新たな人貨輸送という交通需要を生み出すこととなった。
翌年の(大正)三年十月に地元有志の力で城東巡航合資会社が設立され、在来舟運の伝統を活かして、鯰江町今福(のちに徳庵)・大阪天満橋間を結んで寝屋川水路に巡航船の就航を見るに至ったのである。大阪市内で姿を消した巡航船が民間活力により郡部・市部連絡という形でいちはやく復活しているのが興味深い。」
(「大阪城東・寝屋川筋の巡航船寸描」宇田正、『大阪春秋』116号)
↑新喜多橋
↑新喜多橋から寝屋川下流を望む
↑新喜多橋から生駒山方向を見る
↑新喜多橋から南方を見る
↑新喜多橋北詰(左のマンションの建っている所に旧大阪銀行城東支店があった)
「 (昭和)三年十月一日に片町・蒲生間、同九年一月二十四日に朝日橋・極楽橋・徳庵間、さらに同年三月五日に蒲生橋・朝日橋間に大阪市営乗合自動車線が開業したのにともない、城東巡航合資会社の巡航船事業は廃止された」(「大阪城東・寝屋川筋の巡航船寸描」宇田正、『大阪春秋』116号)
十年余りの短い巡航船事業であった。巡航船の代わりに大阪市営乗合バスが走った。
昭和40年代に私も通学で使った。大阪市営バス28号系統だった。今津橋・徳庵橋から天満橋まで走っていた。28号系統は今はない。
「新喜多大橋」バス停留所の近くに「巡航船の船着場跡」の説明板がある。城東区今福南1丁目1番に建っている。
↑「巡航船の船着き場跡」説明板
江戸時代から明治時代にかけて寝屋川は、大阪の市街と北河内・中河内をつなぐ交通の要路で、今福は茨田地区の「浜」とともにその中継地として栄えたところです。大正の初期、巡航船は寝屋川の天満橋から片町-鴫野橋-朝日橋を経て、新喜多大橋(今福南1丁目)までを往復し、一時は上流の徳庵まで運行していたことがあります。昭和初期に市バスが寝屋川北岸の片町・極楽橋間に乗り入れるまで、大阪砲兵工廠に通勤する人々や学校に通う学生たちなどの重要な交通手段として10年余り活躍しました。今福の船着場は、現在の新喜多大橋と新喜多橋の中ほどにありました。(『城東区ふれあいマップ』城東区役所)
なお、新喜多大橋は戦後に架橋された。都市計画道路が戦後開通したのにともなって、新喜多大橋が完成した。新喜多橋には杉山街道が通っている。杉山街道は現在、今里筋で分断されている。
↑杉山街道
↑同上
↑同上
↑同上。「キリンド」創業の地は、城東区新喜多東1丁目。1923(大正12)年3月に呉服商として創業。
↑同上
↑同上
↑旧楠根川
↑旧鯰江公設市場(大阪市経済局の所管)
↑同上。お稲荷様
↑寝屋川の護岸(北岸)
↑日本エナメル株式会社(タカラスタンダード)。竹中工務店株式会社の建築
【参考文献】
『大阪春秋』116号。「大阪城東・寝屋川筋の巡航船寸描」宇田正。
川北電気企業社(パナソニック)のHP
日本エナメル株式会社のHP
株式会社江綿キリンドのHP