父方の叔父の命日に一心寺に参詣した。お骨仏になったのは、父母、父方の叔父、母方の叔母の四人。本堂で待つことしばし。呼ばれてお焼香をする。叔父は行方不明の末、京橋駅近くの協和病院に入院していた。
ある日、役所から連絡がきて、父が見舞いに行った。生活保護を受けていて、最期は寝屋川斎場で直葬された。叔父の姿を思い浮かべて、読経を聴いている。最後にはくせんこうをいただく。
四人のお骨仏を拝む。
↑一心寺のお骨仏
↑同上
↑明治戊辰伏見之役 東軍戦死者招魂碑
↑大正八九年流行感冒病死者群霊碑
↑竹本山城掾墓(文楽)
↑右が小西来山墓
↑小西家の墓
↑同上
↑真ん中が都家文雄墓(ボヤキ漫才師)
↑立入家の墓(当代桂小文枝は次男)
↑同上
↑同上
せっかく近くまで来たから、四天王寺さんに足を伸ばす。暑くて暑くて、お参りの人は少ない。
↑四天王寺境内地図
↑篝の舞楽(チラシ)
↑お盆の献灯灯籠(チラシ)
境内の石碑を見ていこう。
↑生田花朝女の句碑
↑同上
↑菅楯彦の筆塚
↑同上
↑田中塊堂の歌碑
↑同上
↑大東亜戦争青銅馬献納記念の碑
↑生田南水の句碑
↑同上
↑五重宝塔銅瓦寄進十万枚の碑
↑同上
↑同上
↑同上
亀の池以北は、第二次世界大戦(太平洋戦争)の戦災を受けていない。金堂や五重塔は爆撃に遭って、炎上した。
↑保存修理・耐震補強工事中の六時礼讃堂。令和8年3月31日まで
↑同上
↑同上
↑亀の池
入母屋造り瓦葺の英霊堂の創建は明治36(1903)年。当時世界一の大梵鐘が釣られていた。昭和17(1942)年に供出させられる。戦後、改装をして英霊堂になる。
↑英霊堂(えいれいどう)について(チラシ)
↑同上
↑英霊堂(旧鐘釣堂)
↑同上
↑同上
元三大師堂は、元和9(1623)年に徳川秀忠が再建した。元三大師(平安時代の僧良源)は、日本の「おみくじ」の創始者と言われる。
↑重要文化財の元三大師堂(がんざんだいしどう)のチラシ
↑保存修理・耐震補強工事中の元三(がんざん)大師堂
↑高橋正純紀功碑
↑同上
↑坂田藤十郎碑
↑同上
↑同上
↑新町廓名妓小○
↑同上
↑同上
↑同上
↑彦六座主 寺井氏碑
↑同上
↑松島新地組合死亡従業員 供養塔(昭和53年修復)
↑同上
↑同上(大正三年九月建之 松嶋廓)
↑安政地震津波碑(大阪市教育委員会)
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑菅美記子(菅楯彦の妻)の奥城。南霊園に楯彦・美記子の墓碑がある
門前町にはいろいろなお店がある。例えば和菓子の「河藤」さん。この時期のオススメは「水ようかん」と「割氷」だ。氷砂糖のようでそうじゃない。一度味わってください。
↑和菓子の河藤
↑鳴門屋製パン(桃谷)の支店。歴史が手書きで掲示されている
「犬も歩けば棒に当たる」じゃないが、一心寺と四天王寺の境内を歩いてみると、ふだん気づかない歴史に出会う。松嶋遊郭と新町遊郭の女郎衆のお墓に思わず手を合わせた。名もなき庶民の生きた証(あかし)を大切に保存していきたい。
【参考文献】