26日(日)午後、朝日生命ホールの「しんおん寄席」に出かける。ホールは古い。適当な広さがあり、設備更新もされていて好きな会場だ。落語などの伝統芸能にはうってつけだ。広すぎず、狭すぎない。
桂佐ん吉は男前やし、滑舌もいい。舞台に映える。押し出しがいい。「ふたなり」は初聞だが、たいへん現代的で印象に残っている。
↑桂佐ん吉独演会のチラシ
落語に詳しそうなオッチャンに情報をもらった。米朝一門はどの噺家も平均点が取れる。だから、米朝事務所の落語家は安心して聞けると。一方、○○亭一門は差が大きい。合格点が取れる噺家とそうでない噺家がいる。わからないので、そうでっかと聞いておいた。
↑トートバッグに描かれた美津濃大阪本社(1927年)
落語に満足して、帰路につく。地下鉄淀屋橋駅に向かう地下道に旧「愛日小学校」についての掲示がされている。ODONAビルの地下入り口の壁だ。ODONAビルにはかつて、大阪市立愛日小学校が建っていた。愛日小学校は統廃合されて廃校になったが、三菱東京UFJ銀行大阪支店の南にあった愛日小学校周辺を何度か歩いたことがある。
↑淀屋橋周辺の地図
↑明治期の愛日小学校
↑昭和35年 鳥瞰図
↑航空写真
船場の両替商の升家平右衛門家の敷地や蔵屋敷がここにあった。四代目升家平右衛門山片重芳(やまがた ひでよし)の番頭が、『夢の代』を著した山片蟠桃(ばんとう)である。彼は主人重芳を番頭として守り育て、仙台藩蔵元として藩の財政を立て直した。そして他藩の大名貸しで大坂の大商人になった。
山片蟠桃は1748(寛政元)年に兵庫県高砂市神爪(かづめ)で生まれる。1821(文政四)年に74歳で亡くなる。墓は大阪市北区南森町「善導寺」と高砂市神爪「覚正寺」にある。
彼は学問好きで主人の許可を得て、懐徳堂と先事館に通った。町人学者とも言われた。
懐徳堂は1724(享保元)年に創立された学問所。太平洋戦争で建物は消失したが、日本生命ビルの壁に碑が残る。大阪大学文学部が継承している。
先事館は天文学者の麻田剛立によって1789(寛政元)年に創立された。天文学の私塾で、身分の差を問わず教育した。大阪市中央区本町3丁目3-4にあったが、その碑はない。
山片家は、敷地・蔵屋敷・愛日文庫を大阪市に寄付して、1872(明治五)年に大阪市立愛日小学校ができた。 Wikipediaによると、校名は古典文献の一節に由来しているといわれる。どの文献から採用したのか については複数説がある。『愛日小学校総誌』によると、校名を決定する際、当時の東区は地名から校名を付けるのが望ましいと指導したが、学校関係者は地域に愛珠幼稚園があることなどを理由として、「愛」の字をとった「愛日」の校名を強く主張して認められたという話が伝えられている。
↑大阪市立愛日小学校跡
↑旧愛日小学校の玄関
↑旧愛日小学校にあった「愛日文庫」は、大阪市立開平(旧集英)小学校に移されている。
↑ODONAの西側に「大阪市立愛日小学校」の碑がある
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑東京銀行大阪支店があった
↑ODONAの北側に愛日小学校の玄関があった
↑東京銀行大阪支店跡には30階建ての高層ビルができるらしい
↑同上
↑同上、御堂筋に面している
↑西方のフェスティバルホールなどのビル群が見える
記念碑が残るが、母校の跡を訪ねてもそこには母校がない。私は愛日小学校の卒業生ではないが、母校がない卒業生の悲哀を強く感じる。
【参考文献】
『郷土の星 天文学者としての山片蟠桃』(2019年6月発行、山片蟠桃を知り隊編著)
「難読学園」YouTube新RKBラジオ公式チャンネル「立川生志のニュースモール落語」を視聴(2024.5.27)
「ふたなり(落語)」Wikipediaを参照(2024.5.27)
「大阪市立愛日小学校」Wikipediaを参照(2024.5.27)
『愛日小学校総誌』(平成2年3月24日発行、愛日小学校を讃える会事業委員会)