田野さんのお誘いで「素人寄席・天満天神の会 第30回定期発表会」に行くことにした。天満橋から北浜まで京阪電車に乗る。北浜駅で26番出口から難波橋(ライオン橋)を渡る。東洋陶磁美術館、中央公会堂を通って、鉾流橋を渡る。大阪地高裁判所の前を通って、西天満(梅ヶ枝町)停留所から市バスで太融寺停留所で下車する。
↑気になる2個の半球石
↑同上(大阪地高裁判所の西北隅にある)
↑三味の音が聞こえてきそうな老松町の民家
↑同上
↑同上
↑同上
読売新聞大阪本社近くの日本キリスト教団東梅田教会から鐘の音が響く。音を聴きながら、扇町公園を横断する。エレベーターで地下鉄堺筋線扇町駅に入場して、天神橋六丁目(天六)で谷町線中崎町駅で下車した。出口2番から歩けばすぐだ。葉村温泉の近くだ。
中崎町ホールは、旧大阪市立済美小学校があった場所だ。済美小学校の西側まで大阪大空襲の被害を受けた場所だ。小学校の玄関は西側にあった。
かつて大阪市教育委員会は「M教師」を集めて研修を受けさせた。研修は座学、レポート、授業などをさせて、現場に戻していいかを市教委が判断するもの。M教師とは「問題ある」教師を指す。現場で使えないと決まれば、退職に追い込まれる。座敷牢みたいな印象を持っていた。今はマンションと中崎町ホール、中崎福祉センターになっている。この地域も戦争と負のレッテルを貼られた教師の記憶が残っている。現代の若者たちは、中崎町の長屋の町並みに惹かれて集まってくる。観光地化している梅田周辺(茶屋町、芝田町、大深町、牛丸町)の庶民の歴史を知ってほしい。長屋の奥深くに常民の生活が息づいている。
↑中崎町周辺の地図
中崎町ホールはすぐにわかった。田野さんから電話がかかった。「今、どこや」わては地下鉄の階段を上っていた。頭の中に「旧済美小学校」の地理が入っている。お〜い、ここやと田野さんの声がすれども姿が見えず。手を振る田野さんの姿が瞳にやっと見えた。
↑発表会のチラシ
↑発表会のプログラム
↑同上
ホールには席が埋まっていた。中トリの天満家樽斗さんの「ねずみ穴」の途中に入場したので、咄の内容はわからず。中入りの休憩後、天神亭神山さんの「野崎詣り」を聴く。お馴染みの野崎詣りなので、面白く楽しめた。「小粒」をまず説明しないといけないのは、時代の変化だから仕方ないとうなずく。天神亭つき日さんの「星野屋」はとても楽しめた。星野屋の旦那が二号さん(女性)と手を切ろうとする。女は嫌がる。その演者の仕草がいい。縁を切るのが嫌よと身悶えながら、甘く男に訴える女の情念が観客に迫ってくる。その声としぐさから一瞬、ルーキー新一のイヤーンイヤーンを連想した。
↑地下鉄天神橋駅の構内で
中崎町の雑踏を過ぎて、茶屋町の毎日放送本社、ロフト前のコスプレ会場を過ぎて、大阪市バス酉島車庫行き(鷺洲経由)に乗車した。
此花消防署西九条出張所(此花会館内)を過ぎ、西九条公園のアベック(高校生風の男女が抱擁していた)を横目に見て、木場市営住宅(低層五階建て)を通過する。古い住宅で、ベランダにはお風呂(いろんなタイプのバス)が見える。
↑阪神電車の橋梁下に鷺の姿が
↑福山通運の社宅が見える(福山通運の社宅は此花区からも見えるとワクワクするのです。なぜでしょ)
↑北を見る
↑同上
↑同上
↑同上(右側に木場市営住宅群が見えている)
↑同上
↑同上
大阪市立北市民病院だった場所には暁明会病院が建つ。木場市営住宅の高層住宅が建築中である。これから野田阪神まで歩くことにする。新家公園は元は池であった。埋め立てられて、盆踊り会場になっている。福島区にも六道の辻がある。空襲で死んだ人の遺骸を焼いたらしい。(田野登のブログ「晴耕雨読」六道の辻という場所⑴、⑵を参考にした)
↑大阪市バス野田中学校前停留所近くのビル(戦前の建築か)
↑同上
↑新橋筋商店街の店
新橋筋商店街で驚いたことがある。一人の女性がにこやかに声をかけてきた。「どちらへ行くんですか?」と。店に誘導するよう密命を帯びたくノ一忍者であったのであろう。甘い言葉に乗せられたら、どこに連れて行かれたのだろう。
↑天神祭ギャルみこしのチラシ(記事の内容と無関係です)