ヒガチャンは今日は「うっかりさん」でした。
阪神電車千鳥橋駅に13時に田野さんと一善さんと待ち合わせと勘違いしたのだ。明日なのに。敬老パスで地下鉄、バスを乗り継いで大阪駅前に着いた。酉島車庫行きのバスで千鳥橋停留所に着く。待てど暮らせど二人は現れず。電話をすれど、応答なし。口をとんがらせた顔をマスクで隠していたが。バカな私ねと口ずさむ。千鳥橋を渡り、正蓮寺川(埋め立てられている)で深呼吸をした。
↑千鳥橋の欄干
↑ミャクミャクがいるではないか
明太子と梅のおにぎりを頬張って休憩をした。大阪駅前行きのバスに乗る。「さぎす」のバス停で降車。浦江聖天にお参りする。野田藤が見られるかと期待していた。四月末に花を切ったと言われる。去年ほどではなかったそうだ。残念。
↑浦江聖天
↑杜若(かきつばた)?
↑藤棚
うらない商店街を経て、福島駅に出る。そして、浄祐寺(北区堂島3-3-5)に伺う。元三重大学名誉教授で大塩事件研究会長であった、酒井一先生のお墓に参る。酒井先生の父母が眠る上野家のお墓だ。
浄祐寺については以下に記す。創建不明、日蓮宗寺院。当寺には赤穂浪士矢頭長助(やとうちょうすけ)、右衛門七(えもしち)父子の墓と、五大力(ごだいりき)墓がある。
長助は討入り前に死ぬが、子の右衛門七は父の遺志をつぎ討入りを果たした。江戸への討入りのとき貧乏で路用がなく、里人から借金をして出発した。大石良雄はのちになってこのことを知り、里人に5両を返して感謝した。里人は討入りを伝え聞き、墓をつくったという。
五大力墓は、元文(げんぶん)2年(1737)夏、曽根崎新地で実際にあった5人殺傷事件で、その犠牲者の墓である。恋に狂った武士が起こしたこの刃傷沙汰は、「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」として早速劇化され、評判をよんだ。(大阪市教育委員会文化財保護課のHPから引用)
↑浄祐寺
↑同上
↑五大力の碑
↑酒井一先生が眠る上野家のお墓
↑浄祐寺には矢頭右衛門七顕彰碑がある。「矢頭教兼碑 明治元年十一月建 河野逸撰文 小寺静書」と書かれている。(『大坂の遺跡探訪VOL7 大阪市内特別版』2021年、大阪龍馬会)
梅田に向けて歩き出す。梅田橋ビルから蜆川に沿って行く。出入橋を渡る。
↑蜆川跡
↑向こうに出入橋が見える
↑出入橋のきんつば屋
↑出入橋
↑同上
↑同上
↑北新地に近づく
↑同上
↑四ツ橋筋に出た
↑黙祷(左下に供花が見える)
↑同上
↑同上
↑京富ビル横の桜橋碑
↑堂島アバンサ側から西側を見る
↑黙祷
↑旧マルビル
↑同上
曽根崎新地に向かって歩いた。法清寺のかしくさん、浄祐寺の五大力さん、お初天神。遊所で生きた女性たち。事件に巻き込まれた人々に黙祷を捧げる。