左遷され、大阪鉄道局長官舎に住んだ佐藤栄作

 内閣総理大臣ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作。若い方にはご存知ない方もいらっしゃるだろう。沖縄県民の望む核抜きでなかった、沖縄返還法務大臣の指揮権発動で政治生命を永らえ、造船疑獄に連座するのを免れた。岸信介首相の実弟安倍晋三元首相の大叔父にあたる。

 

 1972年6月17日、官邸記者会見室で首相引退が表明された。

 「テレビカメラは、どこにいるのか。(略)そういう約束だ。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだから。国民に直接話したいんだ。文字になると(私の真意と)違うから。偏向的新聞は大きらいだ」と怒りだして執務室に引き上げた。

 しかし、佐藤は秘書官の説得に応じて、会見室に再度戻った。新聞記者団は引き上げた。取り残された佐藤(団十郎)はテレビカメラに向かって挨拶をするのであった。(『佐藤栄作-戦後日本の政治指導者-』村井良太著、中公新書)

 

 佐藤は鉄道省逓信省が統合し運輸通信省になる。自動車局長で戦時輸送の仕事をする。官僚と素人の軍人と対立する局面があった。

 1944(昭和十九)年四月、本省から大阪鉄道局長に転出する。佐藤は、この人事を左遷ととったらしい。局長官舎は天王寺駅の南の阿倍野区松崎町二丁目、庚申街道に面していた。戦後、国鉄天王寺管理局職員宿泊所「阿倍野荘」であった。今はJRのグループ会社の所有になっている。

 

 1946(昭和二十一)年二月、運輸省鉄道総局長官で東京に戻った。

 寛子夫人は苦労の中にも充実していた大阪時代を懐かしんだという。佐藤も大阪出身の西尾末広(元民社党委員長)と会うと大阪時代の話をしたという。

f:id:higachanntan:20221019011615j:image玄関
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f:id:higachanntan:20221019011611j:image玄関内の車輪とレール
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f:id:higachanntan:20221019011553j:image庭の車輪とレール
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f:id:higachanntan:20221019011544j:image灯籠
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f:id:higachanntan:20221019011602j:image玄関
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f:id:higachanntan:20221019011549j:image上町台地なので、西に下っていく

 

 左遷時代の大阪での苦労は、政治家佐藤栄作にどんな影響を与えたのだろうか。また、大阪が佐藤の眼にどう写っていただろうか。

 本省勤務の官僚が陸軍に睨まれて、大阪鉄道局長とはいえ左遷されたのだから、佐藤の脳裡には鬱憤や挫折感が充満していただろう。大阪の人たちは官僚の彼をどう受け入れてくれたのだろう。

 

【参考文献】

佐藤栄作ー戦後日本の政治指導者ー』(村井良太、中公新書)

『わたしたちの常盤』(大阪市立常盤小学校100周年記念誌)

【庭園の撮影並びにブログへの掲載は許可を得ています】