GWのまち歩き(此花区・西淀川区)

 昨日についで、今日も千鳥橋から歩く。正蓮寺川は埋め立てられている。

 田野さんは澪つくしを探す。つられてワテも探すことになる。伝法大橋を渡るか、阪神西大阪線で一駅だけ乗るか。徒歩で伝法大橋を渡る。風も強く、歩道の間隔も狭い。自転車の通行も多い。ヒヤヒヤの通行であった。此花区伝法の町中を歩く。イカリソースの工場跡が目につく。浄土真宗の古刹の安楽寺西念寺が続く町並み。ここが大阪市内とは思えない。一善さんが教えてくれた。蔵ではないか。「災害避難蔵」かどうかが不明。

f:id:higachanntan:20240505000420j:image↑伝法の蔵
f:id:higachanntan:20240505000415j:image↑同上

 澪標住吉神社で提灯に澪標が入っているのにたまげる。鴻池組と神社との深い関係にうなづく。鴻池組本店を横に見て、阪神電車伝法駅を通過する。伝法川跡碑から伝法漁港にかけて、かつての伝法川の流れを連想する。

f:id:higachanntan:20240505002405j:image↑伝法川跡の碑
f:id:higachanntan:20240505002402j:image↑その裏面
f:id:higachanntan:20240505002413j:image↑伝法漁港
f:id:higachanntan:20240505002347j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505002343j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505002420j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505002351j:image↑旧堤防
f:id:higachanntan:20240505002409j:image↑伝法漁港
f:id:higachanntan:20240505002358j:imageネモフィラ
f:id:higachanntan:20240505002354j:image↑伝法大橋から西大阪線の鉄橋工事
f:id:higachanntan:20240505002416j:image↑同上

 対岸の西淀川区福に着く。ネパール人の女性の集団が堤防に横一列に並んで座った。まぶしい日差し、涼やかな風、パノラミックな景色を楽しんでいる風情である。私たちも少し離れて座った。舞洲、ユニバーサルスタジオの高層ホテル街、天保山の回覧車、港大橋、オーク200、二上山、梅田の高層ビル群、生駒山などが見渡せる。

f:id:higachanntan:20240505003020j:image↑新淀川右岸から伝法水門が向こうに見える
f:id:higachanntan:20240505003015j:image↑伝法大橋
f:id:higachanntan:20240505003024j:image↑西島水門
f:id:higachanntan:20240505003011j:image↑船溜まり
f:id:higachanntan:20240505003027j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505003008j:image↑夕陽を受けた舟溜まり

 西淀川区福から大野百島地域を歩くが、日は西に傾く。西島水門の景色に見惚れる。

f:id:higachanntan:20240505004732j:image↑両島橋
f:id:higachanntan:20240505004748j:image↑両島橋あたり
f:id:higachanntan:20240505004738j:image↑西島水門
f:id:higachanntan:20240505004751j:image西淀川区から対岸(此花区)を望む
f:id:higachanntan:20240505004735j:image↑西島水門から堤防を下る
f:id:higachanntan:20240505004728j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505004741j:image↑両島橋のあたり
f:id:higachanntan:20240505004745j:image↑両島橋から対岸を見る
f:id:higachanntan:20240505004725j:image↑両島橋

f:id:higachanntan:20240505010819j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240505010808j:image↑両島橋から此花区を見るうう

 

 住吉神社に立ち寄った。高石義雄氏の名前が「沿革」に大書されていた。水泳選手かと思ったが、自宅で調べると意外なことがわかった。

 高石義雄については、『鉄鋼・鉄スクラップ業主要人物事典』(スチール・ストーリー・ジャパン)を参考にした。

 ▼高石 義雄は大阪に9番目の高炉(大阪製鋼)を作った。また田辺カンツリー倶楽部(京都府)の理事長も務めた。
 彼は、戦前大阪で大阪製鋼(平炉)を創設し、戦後1960年国内九番目の高炉会社、大阪製鋼を作った。
 高石は、1896(明治29)年2月、大阪市西淀川区西島の篤農家の長男として生まれた。篠山鳳鳴中学を卒業後、親戚の機械商楠木商店に入った。その得意先に伸鉄屋があった。
 鉄成金が輩出していた時代。父から2万円の出資を受け1921(大正10)年3月、自宅裏に高石圧延工場を設立したが、当初、製品はものにならなかった。圧延機械で事業を軌道に乗せた。1928年合資会社に組織変更し、1937年平炉4基を備える「大阪製鋼」を設立した。1938年淀川製鋼を吸収、翌年尼崎工場を買収し、1941年には石原兄弟製作所を合併して資本金1000万円を超える大会社とした。しかし、1945年6月1日の大阪大空襲で大阪工場は壊滅。88軒あった社宅も灰燼に帰した。1946年8月、西島と尼崎工場を再開したが、直後に戦時賠償工場に指定された。
 1947年8月、尼崎工場に国産初の連続式条鋼圧延機を開発・導入(この功により大河内記念技術賞を受賞)。1960年、西島工場に第一高炉(326㎥)を新設(当時、トランジスター高炉の愛称でよばれた)。9番目の一貫メーカーとした。事典の記述は「現代人物論」(63年原材料新聞社)を参考にしている。
 大阪製鋼は1977年6月、大谷米太郎が作った大谷重工業と合併し合同製鉄として再発足した。

 大谷重工業の工場が地盤沈下で水没している写真を見たことがある。大谷は、相撲取りから「鉄鋼王」と呼ばれる。五輪前にホテルニューオータニを創業する。西淀川区に大谷重工業の工場があった、それがこの辺りだったのか。
f:id:higachanntan:20240505010823j:image住吉神社の沿革
f:id:higachanntan:20240505010816j:image住吉神社(堤防から低い地盤に建っている)
f:id:higachanntan:20240505010813j:image↑中島1丁目(出来島水門が見える)

 「黄金週間」もあとわずかで終わる。カネをたくさん使わなくても、身近な大阪市内(ユニバーサルスタジオや人の集中して集まる場所を除く)にも魅力的な町並みがぎょうさんおまっせ。インバウンドで浮かれていては飽きません。おカネで遊んでもらうシステムを変えてみませんか?