当代の桂小文枝(かつら・こぶんし)は、かつて桂きん枝と名乗っていた。本名は立入勉三。蒲生四丁目交差点を南に歩いて、シントウ珈琲の路地を東に入った突き当たりの家が彼の実家だった。彼の母は地域の有名人だった。きん枝よりおもろいと言われるくらいだった。きん枝の家は城東商店街でクリーニング店を営んでいた。
↑突き当たりの家がきん枝の実家だった
大阪市立聖賢小学校から大阪市立蒲生中学校に進学。高校は大阪府立成城工業高校に入学。私より学年が一つ下になる。交友関係はない。高校を卒業後、エレベーター会社に就職する。昭和44(1969)年3月8日の雨の降る日、うめだ花月の楽屋へ番傘を持って高下駄を履いたきん枝が弟子入りを先代小文枝に頼み込んだ。父親は高校の時に亡くなっていた。
母は小文枝に頼んだ。「ほんまにしょうおまへんねん、こんな親不孝な子‥。師匠、たのんますわ!どないなとしたっとくなはれ」
むかしわては東淀川区の中学校で働いていた。郵便局の積立貯金を郵便局員が毎月集金に来ていた。担当者が代わって、新しい担当者が名刺を出した。立入(たちいり)と書かれていた。珍しい苗字だ。「ひょっとしてあのきん枝の親戚ですか?」と訊ねた。「きん枝の兄です」と答えが返ってきた。しばらく話が弾んだ。きん枝と私との縁はそれだけである。
先日、城東区民センターで落語会が開かれた。桂文枝(三枝)と小文枝(きん枝)が高座に上がった。吉本興業が文枝の落語会を大阪市24区で開く企画である。城東区では区にゆかりのある落語家を出演させて、小文枝(きん枝)が選ばれたのだ。客席には彼の兄などの関係者が参加したと聞く。
先代の文枝はきん枝を可愛がった。トラブルに巻き込まれても、選挙に立候補して落選しても、愛すべき善人は師匠から可愛がられる。得なお人なのだ。
【参考文献】