小餅谷(こもちや)という苗字は珍しい。こもちたにと読んで、笑われた。石川県加賀市の郷土史では、久保家につながる苗字と言われる。小餅谷は、小餅屋が変わったと思われる。
瑞光中学校で同僚だった久保先生に聞いた。
「私の家は小餅屋彦兵衛の分家。本家の前に家があったので前小餅屋彦助、祖父の代まで彦助を襲名し 、最大7隻の北前船を持っていた。名字帯刀を許され久保姓に なったようだ。父で8代目になるが、襲名せず。
村全体100戸のうち46戸は船主になり、日本一の富豪村(加賀市橋立村)と、ある雑誌に書かれたことがある。しかし、今、当時の家はあまり残っ ていなくて、「北前船資料館」にかなりのものが集められている。もう一つ蔵六園なる施設もあるが、これはある道具屋が買 い取った家を施設にしているだけだ。
現在、私の家は兄の息子(伊丹在住)が継いでいる。第一の分家なので、屋号を前小餅屋(通称前さん) 久一の屋号がある。
小餅谷弘子先生はかつて、大阪市内の中学校で活躍された読書指導や読書感想文指導で実績を残した。小餅谷先生(以後は彼女と呼ぶ)は大阪市教育研究会図書館部の副部長であり、国語科を教えていた。彼女との出会いは、1970年代に東淀川区の中学校にいた時に遡る。彼女は大阪市立野田中学校にいた。1932年生まれの彼女はその頃40代であったろう。メガネをかけて、ふっくらとした体型の女性であった。頼りになる先輩教師だった。
↑『向日葵ー妻 弘子の思い出ー』の表紙
一枚のコピーが出てきた。標題もなく、年月日もない。私の氏名の横に所属校が書いてあるので、生野区の学校名から昭和55(1980)年から昭和63(1988)年の間のコピーだとわかる。教育研究会図書館部の部長が中島章一氏(鶴見橋中)、3人の副部長の一人が都島中学校にいた小餅谷弘子先生だった。
☆小餅谷弘子先生の学歴は以下のとおりである。
大連市立嶺前小学校卒業
大連官立神明高等女学校入学
(敗戦で日本に引き揚げてきた:ヒガチャンの注)
東京吉祥女子高等女学校卒業
東京学芸大学卒業
☆職歴を次に記す。
大阪市立市岡中学校国語科教諭
大阪市立福島小学校教諭
大阪市立野田中学校教諭
大阪市立大桐中学校教諭
大阪市立都島中学校教諭(1982年4月〜1992年3月)
彼女は平成5(1993)年2月7日に61歳で死去した。退職の翌年に若くして亡くなったのだ。葬儀は2月10日に箕面市桜井の教会で行われた。
彼女の夫君である央温(ひろはる)氏が1994年に出版した『向日葵–妻弘子の思い出–』には、友人知人の彼女の思い出が載せられている。「中学生の読書研究会」の会長である吉井善三郎氏(帝塚山短期大学講師、元大阪市立大正中央中学校教諭)や長岡京市に住むあまんきみこ氏(児童文学者)の名が見える。
また、彼女は、長男のオペラ歌手の哲男氏(元大阪音楽大学教授、現桃山学院教育大学教授)に書いた「息子に語る戦争体験」で、「戦禍で命を落とすことがないように」世界中の子どもの幸福のために働いてと願っている。
故人の明るく温かい人柄がよくわかる。遅ればせながら、小餅谷弘子さんのご冥福をお祈りします。
【参考文献】
『向日葵ー妻 弘子の思い出ー』(小餅谷央温著、1994年)