河内永和駅前

 大阪商業大学のミニ講座を受講するため、JR河内永和駅を下車する。時間がまだあったので、大阪法務局東大阪支局にお邪魔する。邪魔するなら帰ってと言われそうだが、東大阪市永和二丁目の旧土地台帳と和紙公図を請求するためである。

 

 永和(えいわ)という地名の由来は、立村に際し「永久に平和」という願いをこめて名付けられたという。大阪府渋川郡のうち、長瀬川下流左岸に位置する。明治6(1873)年から明治22(1889)年の村名。はじめ布施村、大正14年布施町、昭和12年布施市、同42年からは東大阪市に位置する。もとは渋川郡永和(ながにご)村の一部。永和1〜3丁目がある。(『角川日本地名大辞典 大阪府』より引用)

f:id:higachanntan:20230629002513j:image東大阪商工会議所・永和図書館
f:id:higachanntan:20230629002439j:image↑高架の近鉄奈良線
f:id:higachanntan:20230629002443j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629002451j:image↑布施郵便局あたり
f:id:higachanntan:20230629002447j:image↑布施郵便局
f:id:higachanntan:20230629002500j:image東大阪税務署
f:id:higachanntan:20230629002504j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629002456j:image近鉄奈良線の南側
f:id:higachanntan:20230629002508j:image↑地図

  東大阪市民にとっては、永和駅前に「ひとのみち教団」本部があったことは常識なのだろう。東大阪市市民会館とか布施郵便局、布施税務署の辺りとか聞いたことがある。近鉄小坂駅近くの小坂城の城主からも聞いた。子どもの頃、ひとのみち教団の炊き出しに行ったことを教えていただいた。小坂駅と永和駅とは一駅で行ける距離の近さだ。

 

f:id:higachanntan:20230616202726j:image↑御木徳一(みきとくはる)は、「ひとのみち教団」の教祖御木徳近の父
f:id:higachanntan:20230616202729j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230616202732j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230616202723j:image↑昭和13年に永和二丁目の土地を山田六郎が購入した。兵庫県城崎郡香住町に転居

 

f:id:higachanntan:20230616212042j:image↑永和二丁目の和紙公図。上部の東西に走る線路は、大軌(近鉄)奈良線
f:id:higachanntan:20230616212046j:image↑同上。

 

 御木徳一は愛媛県松山の郊外にあった黄檗宗安楽寺の住職だったが、生活苦のため還俗、貧苦の毎日を大阪や京都を転々とする。息子の徳近も同行した。昭和3(1928)年布施市(現東大阪市)に本部を移し、同6年「扶桑ひとのみち教団」と改称した。信者が激増する。天照大神を信仰し、「教育勅語」を教典とし、庶民的な平易な生活訓を基本に夫婦の和合、商売繁盛、病気平癒等現世利益を説いた。国は弾圧に乗り出す。同11(1936)年9月奉告祭の翌日に徳一を逮捕、徳近も逮捕された。不敬罪にあたると教団は解散させられた。世にいう「ひとのみち事件」である。同13(1938)年、徳一は病死する。

f:id:higachanntan:20230706161627j:image大阪商業大学商業史博物館発行の『続々おおさか漫歩』(第3号)より転載。

 

 一方の山田六郎は、大阪くいだおれの創業者。1905年(明治38)、香美町香住区の村長の家の6男として生まれた。20歳の時、大阪の繊維問屋に丁稚(でっち)として入る。
 早くから洋服の時代を予測し、独立してからも「アッパッパ」などを考案、1947年(昭和22)には兵庫県県議会議員となって、1949年(昭和24)、44歳の時に、道頓堀食堂株式会社、つまり「大阪名物くいだおれ」を開業した。
 また、渡欧渡米して自動販売機やブロイラーなどを日本に根づかせるための下地をつくるなど、商人として、事業家としての先見性がうかがえる。独自の勘と経験によって、模範的なマーケティングの実践者であったことが、「ばかたれ、しっかりせ(口癖からつけられた伝記のタイトル)」から興味深く読みとれる。

f:id:higachanntan:20230629003425j:image↑地図
f:id:higachanntan:20230629003333j:image↑地図
f:id:higachanntan:20230629003429j:image↑うどんの今井にある岸本水府の川柳碑
f:id:higachanntan:20230629003350j:image↑うどんの今井
f:id:higachanntan:20230629003412j:image↑出張中のくいだおれ太郎
f:id:higachanntan:20230629003337j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003416j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003420j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003255j:imageくいだおれビルの店内
f:id:higachanntan:20230629003408j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003325j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003344j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003355j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003247j:image↑ビルの看板
f:id:higachanntan:20230629003321j:image↑店内
f:id:higachanntan:20230629003329j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003312j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230629003251j:image↑ドウトンビル

 『ニッポン猪飼野ものがたり』の「道頓堀「くいだおれ太郎」の誕生」によると、くいだおれ太郎の誕生地は大阪市生野区猪飼野中1丁目22番地(現在の生野区鶴橋5-6-4)。猪飼野生まれの「スーパースター」だったのだ。

 昭和24(1949)年、淡路の人形師・二代目由良亀(藤本雲並)が「くいだおれ」創業者・山田六郎から注文を受けて制作した。くいだおれ太郎に“おやじ”(先代)がいたとは知らなかった。先代は昭和24(1949)年6月8日、太郎は昭和25(1950)年1月にデビューしたことになっている。

f:id:higachanntan:20230627155603j:image↑道頓堀から東方を望む

 

 河内永和駅前から始まって、いくら地続きとはいえ、道頓堀までお付き合い願って感謝感激雨霰でございます。

 

【参考文献】

「ザ・たじま」但馬事典(山田六郎を閲覧2023.6.16)

角川日本地名大辞典 大阪府』(角川書店)

『大阪人物辞典』(三善貞司編)

『ニッポン猪飼野ものがたり』(上田正昭監修、批評社)

『続々おおさか漫歩(第3号)』(2000年、大阪商業大学商業史博物館発行)