本町二丁目のビル

 1965(昭和40)年に大阪市電に乗って、本町二丁目電停で降りて通学していた。蒲生四丁目から島屋橋行きから春日出車庫行きに乗った。南森町で霞町行きに乗り換えた。通勤・通学客でラッシュ時は混んだ。ライオン橋(難波橋)を渡る途中、車掌が「次は北浜二丁目、北浜二丁目です」と叫ぶ。しかもご丁寧に「京阪電車、○○行きは○○でお乗り換えください」と延々と案内してくれた。あまりの長さについ笑いが漏れた。

 モータリゼーションの煽りを受けて、市電が廃止されていく。昭和40年代に市電堺筋線も地下鉄の運転手に市電運転手を配置転換するために廃止になる。

 市電廃止につれて、私の通学路も次々と変わっていく。蒲生四丁目から東野田四丁目で下車。片町から天満橋電停で下車し、熊野街道を歩いて内本町二丁目(内本町バスセンター)から生国魂神社御旅所を抜けて、農人橋を渡る。渡ると、高校があった。

 

 東区(現在の中央区)の堺筋や本町通の近くにあったので、ターバンを巻いたインド人や株屋の社員、丼池の繊維街の社員たちで活気が溢れていた。船場のど真ん中で高度経済成長の空気を吸っていた。高麗橋三越大阪支店、天満橋松坂屋百貨店、大阪マーチャンダイズマートビル(OMM)に明るい未来を見ていた。

 

 通学路が転々としたが、古堤街道を京阪電車京橋駅まで歩いた。京橋駅は平面を走っていた。国鉄京橋駅北口から吐き出される人々は踏切で京阪電車の通過を待つことになる。京阪三条へ行く人、淀屋橋方面に行く人、周辺の企業に働く人。駅には京阪マーケットがあり、駸々堂(書店)やヒロタのシュークリームが入っていた。京橋駅から天満橋駅まで乗った。途中駅は片町駅のみ。市電と京阪電車の平面交差が有名だった。その振動が身体に染みついている。

f:id:higachanntan:20230814232608j:image↑本町二丁目交差点の旧早稲田シャツビル

 

 本町二丁目交差点の本町ビルディングの屋上に、フェニックス・モザイク「糸車の幻想」があった。在学中には見たことがない。今は大阪商工信用金庫ビルの階段を登れば、手軽に観られる。
f:id:higachanntan:20230814232624j:image大阪商工信用金庫の本店
f:id:higachanntan:20230814232612j:image↑フェニックス・モザイク「糸車の幻想」の説明板
f:id:higachanntan:20230814232632j:image↑本町通の説明板
f:id:higachanntan:20230814232636j:image↑フェニックス・モザイク「糸車の幻想」の説明板
f:id:higachanntan:20230814232620j:image↑フェニックス・モザイク「糸車の幻想」
f:id:higachanntan:20230814232604j:image↑同上
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f:id:higachanntan:20230814232600j:image↑同上

 

 本町四丁目で御堂筋を北上すれば、淀屋橋に着く。交差点の東西では、高層ビルの建設が進行している。京阪ホールディングス(東部)と大和ハウス(西部)。ミズノ本店も消えた。MJB珈琲店も消えた。東京銀行大阪支店ビルも消えた。
f:id:higachanntan:20230814232616j:image淀屋橋東南部で高層ビル建設が進んでいる
f:id:higachanntan:20230814232640j:image淀屋橋西南部でも高層ビル建設が進む

 

 形あるものはいつかは消えるものと理解しているが、記憶は時間と共に薄れていく。「忘却とは忘れ去ることなり」と高明な脚本家が言ったが、それでもとてもやり切れない。