宍戸錠は大阪市生まれだった

 雑誌『ブルータス』(2018年11月1日発行)に宍戸錠の自伝が連載された。何度も読むが位置関係がわからない。

 その部分を抜粋しよう。

 

 親父は鉄鋼所の会社をやっていました。淀川の銀橋から歩いて行くと桜ノ宮公園があって。その近くに5階建てのビルを建てて、親父は仕事をしていました。僕は5人兄弟の4番目で、兄弟はみんな大阪生まれ。祖父が福島県伊達郡の半分くらいの土地を持っていて、親父はその三男でした。英語を一生懸命習っていたから英語ができて、「これから日本では戦争が始まるに違いない」と、大阪へ行って鉄鋼(工?)所を始めたんです。親父の働いているビルの近くに陸軍師範学校があったことを覚えています。家は淀川の近くの3階建てで、3階が子供たちの遊び場でした。冒険心の強い僕は5歳の頃、淀川で溺れて死にかけたりしてさ。なんとかハスの葉っぱに捕まって助かったんだけどね。親父は鋼屋になって成功して、東京の滝野川、今の北区に1300坪くらいの家を建てた。いつも女中が2人いて、藪や池があって、築山が3つあった。とにかくものすごい金持ちになったんだ。あれがいけなかったね(笑)。僕は好奇心旺盛な子供で、親父の車に乗り込んで、なんかいじっていたらいきなり動きだしちゃった。「止まんないな、どうしようかな~」って。木にぶつけて止まって、必死で帰って、「お父さん、見てよ」って。「あーあ、ダメだよ。こういうことしちゃ」なんて言われてね(笑)。5歳までしか住んでなかったのに大阪の記憶が強くてね。大阪弁を使えと言われたら今でも使えまっせ(笑)。空襲の時、親父は鉄兜をかぶって一番下の子(俳優、故・郷鍈治)を抱いて桜ノ宮公園に逃げようとした。するとストーンと焼夷弾が落ちてきたんだけど、破裂しなかったの。その鉄兜のヘリに落ちたんですよ。それで人生が変わったんです。大阪は空襲で焼けました。

 

 Wikipedia宍戸錠を調べた。生年は1933(昭和8)年12月6日。没年は2020(令和2)年1月18日。86歳で亡くなる。出生地が大阪市北区。「家のあった桜宮は下請けの町工場と温泉マークがあったため、5歳の頃に家族で東京滝野川へ移住」した。

 陸軍師範学校が「親父の働いているビルの近くに」あったと宍戸は記憶している。陸軍幼年学校のまちがいでないだろうか。陸軍幼年学校は、1896(明治29)年に大阪に大阪陸軍地方幼年学校が設置された。1898(明治31)年2月21日、大阪市東区大手前之町5番地に新築された校舎に移転した。1920(大正)年8月、陸軍幼年学校令が制定され、大阪陸軍幼年学校と改称した。ワシントン海軍軍縮条約のために同年3月31日に廃止になった。

 大阪市東区大手前之町5番地は現在、大阪市中央区大手前3丁目1番、2番付近に当たる。大阪府庁本館や別館、パスポートセンターの辺りだろうか(大阪市中央区役所調べ)。