布施落ち

 「布施落ち」という言葉を先輩(昭和九年生)から40年前に聞いたことがある。大坂船場で商売に転けたら、再起をきして、布施(や尼崎)に落ちることをいうのだ。

 その先輩の実家は酒屋を船場でしていた。商売で大損失をして、布施市民になったというのだ。姉は樟蔭女専で司馬遼太郎の奥方(福田みどり)と国文科で机を並べたと教えてくれた。司馬夫人のあだ名は、「牛乳瓶の底」と。眼鏡の度がきついので、そう言われたのだ。(先輩の)中学校の担任が伏見格之助元東大阪市長だったとも。革新市長で有名だった。

 伏見市長の弟も教員だった。日教組が組合分裂した時、大阪市内の東部支部長をしていた。その時の記憶は後日記したい。

 後日、小坂城城主の磯野さんに「布施落ち」の意味を尋ねた。ついで「小坂落ち」はあるのかとも訊いた。その時の記憶は定かでない。