第七藝術劇場で「妖怪の孫」を鑑賞した。十三駅から市バスに乗って十三大橋を渡った。十三のサカエマチ商店街は昼の気だるい雰囲気に包まれていた。
↑十三駅東口と西口をつなぐガード。かつて傷痍軍人がアコーディオンを弾いていた
↑十三駅東口
↑十三駅東改札口
↑かつて本屋があったが、今はパチンコ屋
↑ミスタードーナツだけが今も盛業中
↑商店街のアーケード
↑養老の滝があった
↑旧淀川区役所前の交番
↑元淀川区役所跡地には高層マンションが建つ予定
↑十三駅東口のロッカー
↑十三駅東口の飲み屋街
↑十三駅東口の商店街(十三ロールで有名なホルン洋菓子店)
中津浜通(今は中津六丁目)のバス停でバスを降りた。高架の階段を降りて阪急中津駅に向かった。魔境のような雰囲気が気に入っている。母の胎内に入るような心地が好きなのだ。
↑十三ロータリー
↑阪急中津駅周辺
↑大阪福知山線と阪急高架線
↑阪急京都線・宝塚線・神戸線の高架
↑マンションと民家
↑阪急中津駅
↑阪急高架線
↑阪急中津駅
↑阪急中津駅の階段
↑構内の店
↑同上
↑同上
↑阪急中津駅の改札口
↑阪急高架線
↑同上
↑阪急中津駅の階段
↑高架下の住居
昔の中津を歩く。うだつを上げた建物が残っていた。
↑中津公園内の地図
↑同上
↑高層ビル
↑長屋
↑うだつを上げた建物
↑同上
中津小学校を通過して、冨島神社に至る。
↑冨島神社の看板
↑冨島神社の鳥居
↑井戸の升
↑同上
↑狛犬
↑藤の花
↑本殿
↑冨島神社の由緒
↑鳥居
↑冨の井
↑記念碑
↑背面
↑碑を拡大した
↑カエル
↑カエル
↑カエル
↑カエル
↑天満宮の牛
冨島神社の並びに光徳寺(画家の佐伯祐三の実家)がある。浄土真宗本願寺派の寺院である。
佐伯祐三は明治三十一(1898)年大阪市大淀区中津浜通一丁目の、光徳寺十三代住職佐伯祐哲の次男に生まれる。大阪府立北野中学校(今の府立北野高校)四年生から赤松麟作の「赤松洋画研究所」で石膏デッサンを学ぶ。大正十(1921)年東京美術学校洋画科に進学、油彩に転じる。
兄の十四代住職、佐伯祐正は後に語る。「祐三は父に似てやさそれも度をこして、少しでも金が余ると気の毒な人に恵んでしまう。野良犬も片端から拾ってくる。蝿でも蚊でも絶対に生き物は殺さない。(池田)米子さんとの恋愛も、最初は彼女の足が少し不自由だったからだ」。
大正十三年卒業した祐三は、米子と長女彌智子を連れパリに渡る。画家ブラマンクから裸婦像を罵倒される。罵倒された祐三は「魂を奪われた人形のよう」になる。大正十五年、妻子を連れて帰国する。渡欧のための資金を貯めた祐三は昭和二年九月、再びパリに一家で戻る。結核と強度の神経疲労のため、昭和十二年八月十六日に病院で死去。長女(五歳)も二週間後に結核で亡くなる。夫人は二人の遺骨を携えて帰国する。
米子夫人は「既にあの頃、なにも分からなくなっておりました佐伯が、不思議に死を直観していたものか、エプラール病院に入院する間際に私を呼びまして、ぼくの絵は全部日本に持って帰ってくれ、日本の皆さんによろしく、と申したことがございます。その言葉が彼の亡きあとの私への仕事を、教えたのでした」と語っている。
二人の結婚に反対した父祐哲は亡くなり、兄の祐正が十四代住職になっていた。遺骨は荼毘に付され墓地に埋葬される。墓には銅板が嵌め込まれた。「パリで死す 祐三 彌智子」と刻まれていた。しかし、それは所在不明になっている。
米子は自分の実家の菩提寺「称揚寺」(東京都中央区築地四丁目)に分骨する。米子は昭和四十七(1972)年十一月に病没する。
兄の祐正は、大阪の社会福祉史に名を残す。天神橋筋六丁目にあった北市民館の建設(1921年開館)に尽力した。光徳寺善隣館でセツルメント事業を大正十(1921)年から行っていた。祐正は大正十二年にパリで開かれた世界セツルメント大会に参加したが、実は親から祐三を連れ帰れと指示されていた。結果的に連れ帰ることはできなかったが。
北市民館に茂っていた蔦は、光徳寺から移植したものと言われている。昭和二十年六月、光徳寺は空襲で全焼。祐正も爆弾で重傷を負う。九月、済生会病院で亡くなった。四十九歳であった。
戦後、光徳寺善隣館が焼失して、妻の千代子が知的障がい児の「中津学園」を開園する。開園を推進したのは祐正の長男の祐元であった。祐元は近江学園の糸賀一雄を慕い、近江学園に住み込んで知的障がい児福祉の勉強をする。
↑「佐伯祐三生誕の地」碑
光徳寺は佐伯祐三生誕の地として有名であるが、大阪の社会福祉史に名を残す地であることを肝に銘じたい。
中津には「カンテグランデ中津本店」があるのでも有名である。マンションの地下にある。階段を降りていくと、まるで胎内に入っていくような錯覚に囚われる。チャイを飲んで、渇きを癒した。
↑カンテグランデの入り口
↑階段を降りていくと‥
おおさか東線が大阪駅まで延伸した。かつての梅田貨物駅が再開発されている。ガードを潜ると、臍の王神社の灯籠と石碑がある。臍の王神社本社はJR片町線野崎駅から徒歩。
↑マンションの側の地蔵尊
↑おおさか東線のガード
↑工事予定表
↑梅田スカイビルが見える
↑臍の王神社の碑
↑臍の王神社の灯籠
↑臍の王神社周辺
↑同上
↑萩の橋
↑同上
↑同上
地下鉄中津駅に着く。かつて小学生高学年から中学生にかけてボーイスカウト大阪第77団に入団していた。北野カトリック教会に毎日曜日に通っていた。チャペルに入る時に十字を切った。「天と地と聖霊に栄えあらんことを」と唱えた。そこもビルになっていた。その中に聖堂がある。
北野カトリック教会は、1906年にシルベン・ブスケ神父によって創設される。大阪市内で4番目の天主堂であった。大阪市北区北野小松原町にあった。今のTOHO CINEMAのビル敷地内だった。
1912年、中津町下三番に移転。1923年に国鉄貨物線が敷設され、再移転する。中津警察署を東に半町入った所(今の地下鉄中津駅)。1934年、地下鉄線延長で今の地に移転した。
ゼレー神父がゴチック様式の聖堂を建てた。
ブスケ神父は再び北野教会に赴任。ここで憲兵に連行され、拷問で殉教死した。1945年5月25日の空襲で聖堂が焼失した。戦後、1949年に小さな石造りの教会が建った。
私が教会に通った時の神父さまは、稲田豊神父(1956年〜1963年)であった。眼鏡をかけた温厚な神父さまであった。
今は「サクラ・ファミリアの大阪梅田教会」(大阪市北区豊崎3-12-8)と変わっている。2006年の建築。
↑ホテルと教会がビルに入っている
↑サクラ・ファミリア大阪梅田教会
新旧さまざまな建物が中津にある。また地域の歴史が根付いている。北区ではあるが、旧大淀区のまち歩きをして、きらりと光るものを発見した喜びを共有したい。
【参考文献】
『大阪人物辞典』(三善貞司編)
『カトリック大阪大司教区 再宣教150年記念誌』(カトリック大阪大司教区)