城北市民病院

 大阪市旭区高殿6丁目14-3に大阪市立城北(しろきた)市民病院があった。

 昭和28(1953)年12月に開設された。平成5(1993)年11月末に閉院した。私の長女はこの病院で昭和59(1983)年4月に産まれた。しかし、ABO血液型不適合で長女は1週間退院が遅れた。黄疸が出るので、光線療法を受けた。長女には話していない。

f:id:higachanntan:20230603112928j:image↑城北市民病院「お産の入院案内」
f:id:higachanntan:20230601203746j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230601203755j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230601203749j:image↑同上(院内の地図)

 「大阪市市民病院の移り変わり」から転載する。今は市街地化しているが、70年前の高殿地域を想像されたい。

 大阪市域の東北の地区には、病院がなく、市民病院の建設は昭和24(1949)年以来懸案となっていたが、市東北部地域の疾病患者に対する医療と医学的な研究を行うことを目的に、昭和27(1952)年度より着工した城北市民病院の建設は、総工費2億5千万円のうち28年度までに1億1000万円をもって第1期、第2期工事を完了し、昭和28年12月旭区大宮町に城北市民病院が開院した。診療科は、内科・外科。病床数32床。

 「旭区は大阪市の鬼門に当たるので、当時は人の流入は少なく、人口の少ない旭区に病院を設立するので、利用者があるかどうか心配されました」「病院の辺りは、ほとんど田圃で田植えのすんだ頃の夜は蛙の大合唱で患者さんが眠れない程でした」(「しろきた‘88」大阪市立城北市民病院厚生会誌より)

 

【参考文献】

『生活衛生』vol.40 NO1(1996年) -大阪市の行政現場から-大阪市市民病院の移り変わり(その2)