JR関西本線(大和路線)久宝寺駅に降り立つ。かつて近くに竜華操車場があった。駅の南口は再開発地域で高層マンションが建っている。それに比べて北口は工場や住宅が広がっている。未知の地域だが、「久宝寺寺内町案内版」をすでに持っていたので、それを頼りに歩いた。
久宝寺駅の案内図
寺内町への案内図
矢印をたどろう
南口の高層マンション
都市計画道路予定地の文化財調査
同上
許麻(こま)神社前の民家
許麻神社で由緒書をいただこうと思い、社務所の連絡先に電話をした。由緒書は作っていないそうだ。由来を聞いた。朝鮮半島の高麗から渡来人が来て、久宝寺に住む。その氏神が許麻神社になったと言われているそうだ。夏祭り(7月18日〜19日)では神輿とふとん太鼓が巡行される。境内にふとん太鼓庫がある。久宝寺の家ではハレの日で、客にタコ酢やハモ、すしなどをこしらえたという。
許麻神社の鳥居
由緒が書いてある碑
八尾市保存樹
同上
境内
手水舎
氏子が管理などを行なっているらしい
久宝寺寺内町はかつて、土塁(環濠)に囲まれていた。今よりも広範囲だったらしい。ほとんどが埋められて、一部が残っている。1470年に本願寺第八世蓮如上人が久宝寺で布教、1479年に西証寺(現・顕証寺)を建立。1541年頃に寺を中心に自治都市久宝寺寺内町が生まれた。
顕証寺南側に残る土塁跡
土塁跡
国登録有形文化財になっている浅野家住宅と高田家住宅はいずれも非公開である。
浅野家住宅は久宝寺寺内町にある。嘉永元年(1848)の祈祷札のある主屋。主屋に並ぶ乾蔵は江戸時代末期のもので、巽蔵・東納屋・南納屋は昭和10年頃のものである。(「北河内 中河内・歴史的建造物マップ」を参照)
高田家住宅の主屋も江戸時代末期のもの。油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきた。主屋の東南に建つ米蔵は平屋で側道に面する。(前記のマップを参照)
江戸時代前半、久宝寺木綿として河内木綿の本場として栄えた。
国の有形登録文化財になっている浅野家
浅野家住宅から西を望む
高田家住宅
同上
米蔵
蔵
右が浅野家、突き当たりが顕証寺
顕証寺が奥に見える
蔵
久宝寺寺内町の蔵は段蔵になっていない。中甚兵衛の大和川付け替え(1704年)によって、長瀬川の氾濫がなくなったと思われる。段蔵にする必要性がなくなったのであろう。北河内や中河内のような段蔵は久宝寺寺内町では見られないと思われる。
八尾市まちなみセンター(寺内町ふれあい館)で情報を手にして、寺内町を歩こう。顕証寺の北にある。安井道頓・道卜生誕地の碑が目につく。久宝寺のどこかから移ってきたようだ。
寺内町ふれあい館
安井道頓・道卜生誕地の碑
説明板
本屋
火の見櫓
蔵
ランチ(1000円)
食堂(古民家を再生して営業中)
食堂
長屋
古民家
蔵
街道の石碑
最後に本願寺派顕証寺に向かった。久宝寺御坊というだけの広大な寺地である。商業都市・自治都市の核として存在した寺の力を見せている。寺の前を通る人の挙動を見ていて、気づいたことがある。通り過ぎるのでなく、立ち止まる。手を合わせ、祈る。しばらく合掌ののち、立ち去る。今も久宝寺の人に寺は心の支えになっているのだ。宗教が息づいているのだ。
顕証寺の由緒書によると、天文11年頃(1542)から本格的に堂宇が建立されたらしい。現在の伽藍は18世紀初期から後期にかけて再建された。本堂は府下で「最大の規模を誇る木造建築」で、正徳6年(1716)棟上げされた。平野区の大念仏寺にも同じ記述をしている。どちらも最大の規模を誇るものであることには変わりがない。大念仏寺本堂は国の登録文化財になっている。
顕証寺のHPは、http://www.kenshoji.or.jp/
大念仏寺のHPは、http://www.dainenbutsuji.com
【参考文献】
『八尾の史跡 増補版』(棚橋利光著)
『新版 八尾市史 民俗編』(八尾市発行)