もみじ寺(壽法寺)を訪ねて

 天王寺区大道1丁目の壽法寺は、もみじ寺とも呼ばれる。太平洋戦争以前は、境内にはもみじの木が多くあった。紅葉の名所であった。しかし、戦火のため堂宇はすっかり燃えてしまった。

 境内には有名人の墓が多い。初代市川團十郎の墓。笑福亭一門の墓。六代目松鶴の墓。笑福亭松喬師匠の墓などがある。

f:id:higachanntan:20220815004716j:image浄土宗壽法寺の大きな看板
f:id:higachanntan:20220815004704j:image笑福亭家の墓
f:id:higachanntan:20220815004700j:image七代目松鶴師の墓
f:id:higachanntan:20220815004656j:image六代目松鶴師の墓
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f:id:higachanntan:20220815004712j:image初代松鶴師から七代目松鶴師の墓

f:id:higachanntan:20220815005500j:image笑福亭松喬師の墓(正面)
f:id:higachanntan:20220815005453j:image笑福亭松喬師の墓(裏面)

 

 境内に山崎長之輔碑がある。連鎖劇の祖である。

 連鎖劇という言葉も死語になっている。「芝居の途中で白いスクリーンが舞台上方から降りてくる。そこに活動写真を投影し、演出とした。実演と映像の中の役者の動きをあわせて、スクリーンのなかに飛び込んだように見せる」ものと橋爪紳也が書いている。(『なにわの新名所』)

f:id:higachanntan:20220815005247j:image山崎長之輔碑(正面)
f:id:higachanntan:20220815005251j:image山崎長之輔碑(裏面)

    山崎は活動大写真が初めて日本で写された頃の俳優。明治10(1877)年に東京で生まれる。活動大写真が無声時代だから、大衆の心をつかみ、角座に上がるほどの人気をつかんだ。大正10(1921)年ごろからトーキー時代を迎える。人気がガタ落ちになる。大正13(1924)年5月に急死する。行年47歳であった。墓地の隅にある。寂しげな碑である。

【参考文献】『大阪人物辞典』(三善貞司編)